今井宗久について
今井宗久(いまい そうきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人であり茶人で、千利休・津田宗及と並び茶湯の天下三宗匠として知られています。
1520年に大和国、現在の奈良県で地侍の子に生まれた宗久は、近江源氏佐々木氏の分家筋にあたる出自ですが、近江国にある今井市城を所有したことから今井氏を名乗っていました。
宗久は、父親が一族の三男であったため自分で身を立てる必要があり、元服後は大和を離れて境に住居を移します。当時の堺は室町時代に会合衆と呼ばれる有力商人たちが賑わう町で、宗久も商人になる修行と同時に教養を身に付けるため茶の湯を学びました。
茶の師でもある武野紹鴎宅に身を寄せて茶を学んでいましたが、後に紹鴎に気に入られた宗久は女婿となって数多くの家財茶器などを譲り受けます。
やがて独立した宗久は商人で生計を立てるようになり、戦国大名に鉄砲や火薬などを売り、財を成しました。1568年に織田信長が上洛すると、へうげものとして知られる古田織部の織部焼や茶器の名品である「松島の茶壺」「紹鷗茄子」などを献上して信長に取り入ります。やがて信長から堺五箇庄の代官に任命されると信長の庇護の下で政商として成功し、巨万の富を築き武将茶人として信長の天下統一を支えました。
しかし、信長から羽柴秀吉の時代になると茶の湯は千利休が牽引するようになり、宗久は静かに主役の座を降り1593年に死去します。今井宗久ゆかりの茶室は歴史的価値の高い「黄梅庵」と呼ばれ、多くの観光客が訪れています。
略歴
1520年 | 大和の今井村(現在の奈良県)に生まれる |
1548年 | 火薬の原料(硝石)を独占的に買い占める |
1552年 | 鉄砲の生産を開始 |
1554年 | 大徳寺塔頭大僊院に170貫を寄進し、寿林宗久・昨夢齋の号を授かる |
1555年 | 武野紹鴎が53歳で急逝し、紹鷗の長男・宗瓦の後見人となる |
1568年 | 織田信長と摂津西成郡芥川で会談。茶器の名品「紹鴎茄子」「松島の茶壺」を献上する |
1569年 | 摂津国五カ庄塩・塩合物の徴収権と代官職を任せられる |
1570年 | 但馬銀山(但馬国)の支配を任せられる |
1582年 | 織田信長が本能寺の変で没したあとは、豊臣秀吉の御咄衆になる |
1587年 | 秀吉が主催した北野大茶会に協力 |
1593年 | 死去。享年73歳 |