織田長益(有楽斎)について
織田長益(おだ ながます)は織田信長の実弟になり、安土桃山時代から江戸初期の大名茶人になります。織田長益は「織田有楽斎」としての名前でも有名な人物になります。
武将としての手腕も良くさまざまな合戦に参戦して戦功を挙げるほどの実力の持ち主でした。しかし温厚な性格から茶道の道に進みます。
明智光秀に襲撃された本能寺の変の知らせを聞いた織田長益は、信忠らとともに援軍に向かおうとしたが、織田信長の自害の知らせを聞いたのち二条城へと陣を変えて、明智軍と勇猛に戦った後、今日から脱出し岐阜まで逃れたとされています。
その後、織田信長の次男である織田信雄に仕えるが、信雄が改易された後は、豊臣秀吉の御伽衆として仕えたのち、剃髪して有楽と号している。
茶道は茶人で有名な千利休に学び、高弟「利休十哲」に名を連ねるまでになり、武家茶道「有楽流」を確立させました。
織田長益が再興した京都の建仁寺の正伝院に立てた茶室如庵は国宝に指定されており、現在は、愛知県の犬山城にある庭園・有楽苑に移設しています。国宝茶室如庵は、二畳半台目の茶室で、屋根は柿葺、自然の風合いを生かした外観は、端正な美しさがあります。また、織田有楽斎が自作した竹茶杓は、根津美術館に今も貯蔵されています。
豊臣家と徳川家の争いの大坂夏の陣のあとは、京都へ移り住み、晩年は茶道と趣味に生きることになります。徳川家康から江戸の数寄屋橋門外に屋敷を拝領し、東京の有楽町という名は有楽斎の屋敷があったことに由来しているという説があるが、有楽斎が有楽町に住んだという記録はないので俗説だとも言われています。
略歴
1547年 | 織田信秀の11男としてに生まれる。織田信長の弟で年は13歳離れている |
1551年 | 父・織田信秀が死去。家督を織田信長が継ぐ |
1574年 | 尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修 |
1582年 | 正室・雲仙院殿(平手政秀の娘・清)との間に織田頼長が誕生 |
1582年 | 甲斐の武田勝頼攻めでは、織田信忠軍として参戦 |
1588年 | 豊臣姓を下賜される。千利休に茶道を学ぶ |
1590年 | 織田信雄の改易後は秀吉の御伽衆として、摂津国島下郡2000石を領する |
1600年 | 関ヶ原の戦いでは東軍に味方 |
1621年 | 京都にて死去。享年76歳 |