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2023年8月18日 茶道具

中国、朝鮮半島、欧州の茶道の歴史

中国の茶道の歴史

日本と中国の交流は、古の時代から今日に至るまで長く続いています。近年では、経済的にも文化的にも強く結ばれ、日本のポップカルチャーが中国で流行し、中国で製造された商品が多く販売されています。
日本のお茶の歴史は、平安時代から鎌倉時代にかけて中国からもたらされたものですが、中国において、お茶は王朝の儀礼や寺院の茶道などいたるところに存在してきました。お茶は中国人の日常生活に溶け込み、今では生活の中で欠かすことのできないものになっています。

中国茶の歴史中国の歴史の中で、お茶が最初に登場するのは紀元前2700年ごろに作られた逸話です。医療や農業の知識を人々に広めた存在である神農(しんのう)が、多くの植物を試し、この中にお茶も含まれていたとされています。
世界最古のお茶をテーマにした本として知られる『茶経』(ちゃきょう)は、唐の時代に編さんされました。『茶経』には、歴史、茶道具、入れ方、飲み方や心得などがまとめられています。

宋から明の時代になると、お茶は身分の高い人のものから、庶民のものへと変化していきました。お茶を飲みながら書をたしなみ、絵を描いたとされています。また、「闘茶」といって、お茶や茶器の良し悪しを鑑定する遊びや、ジャスミンなど花の香りをつけた「花茶」という楽しみ方も登場しました。

清の時代になると、中国茶葉や茶道具は一通り大成し、お茶の文化は最盛期を迎えました。また、中国からイギリスに向けて大量の紅茶が輸出されるようになり、これが後に「アヘン戦争」の遠因となっていきました。清が終焉を迎え中華民国が成立すると、日本など列強諸国の侵略を受けますが、お茶の文化はさらに発展します。現在では、日常よく飲まれる飲み物として定着し、生産量・消費量とも世界一を誇ります。
中国にも「茶道」は存在しており、茶を飲むことを通して、人との交流を深めることや、身も心も清らかにすることを大切にしています。

朝鮮半島(韓国)の茶道の歴史

日本と朝鮮半島の交流は、古の時代から今日に至るまで長く続いています。中国で生まれたものが朝鮮半島を経由して日本にもたらされたものは数多くあります。また、近年では日本のポップカルチャーが韓国で流行し、韓国の人気アイドルが日本でも活躍するなど見られます。お互いに影響を与えながらも、日本と朝鮮半島の文化は異なる面も多く存在しています。茶を飲む文化もその一つです。
日本では緑茶が広く飲まれるとともに「茶道」が発達しました。一方、韓国では、「茶」といえば果実や漢方薬を煎じ、砂糖を加えて飲むことが多いです。

朝鮮半島の茶の始まりについては諸説ありますが、新羅(しらぎ/シンラ)の時代に、中国・唐から茶がもたらされた記録が残っています。主に僧侶が茶を楽しんでいました。高麗(こうらい/ハンチャ)の時代は、国王や貴族が仏教を保護したため、これまで僧侶が楽しんでいた茶の文化が広がりを見せました。ただ、朝鮮半島で茶の栽培に適した場所が少なく、生産量も少なかったため、中国から輸入して茶を楽しんでいました。14世紀末に成立した李氏朝鮮(りしちょうせん)の時代になると仏教が衰え、それとともに茶の文化も衰退してしまい、豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した頃になると、国王や貴族の間で茶を楽しむ文化は廃れてしまいました。しかし、19世紀になると茶を楽しむ文化が復活し、「茶道(タド)」という用語が使われるようになりました。

茶を楽しむ文化は、日本と朝鮮半島で大きく異なりますが、日本における「茶道」で、朝鮮半島の影響を受けたと考えられるものの例として、焼き物などの茶道具があげられます。豊臣秀吉の朝鮮侵略の時に、多くの陶芸職人が日本に連れてこられており、これをきっかけにして日本各地で焼き物の文化が発展しています。こうして作られた茶道具が茶室に持ち込まれ、使われるようになったとも考えられています。

ヨーロッパの茶の歴史

16世紀半ば過ぎ、日本国内は戦国の世で、各地の戦国大名が天下統一を目指して争いを繰り広げていました。戦国時代のさなかに、ポルトガル人が来航したことをきっかけにヨーロッパ諸国との交流・交易が始まります。その中で、ヨーロッパの人々は日本の「茶の湯文化」に接しました。そして彼らは、お茶の作法など幅広い文化をもっていることに驚きました。このあと、欧米各国にお茶が伝わっていきました。

ヨーロッパのお茶の歴史ヨーロッパに初めてお茶を伝えたのは、オランダの東インド会社です。オランダは日本や中国でお茶(当時は緑茶)を購入し、ヨーロッパに輸出して莫大な利益を上げました。その後、国力を強めつつあるイギリスとオランダとの間で戦争が起き(英蘭戦争)、勝利したイギリスは中国からお茶を輸入できるようになりました。
この間、大量のお茶がヨーロッパに運ばれ、上流階級を中心にお茶を楽しむ文化が広がっていきました。合わせて、お茶を楽しむための器も多く生産されるようになりました。

9世紀になると、イギリスは「大英帝国」とも呼ばれるほどの強国となり、世界進出を強めていきます。進出先の一つがインドでした。インドには「ムガル帝国」が存在していましたが、次第にイギリスがインドへの影響力を強め、19世紀後半にインドはイギリスの植民地となります。イギリスがインドへの影響力を強めつつある時に、インドのアッサム地方で新しい品種のお茶が発見されました(アッサム種)。その後、植民地支配をしている地域でお茶の栽培をするための農園(プランテーション)が、形成されるようになりました。
第二次世界大戦後、お茶の生産はさらに広がり、ケニアなどのアフリカ州でも栽培されるようになっています。