1911年 |
明治44年、現在の川崎市高津区で岡本家の長男として生まれる。父は漫画家の岡本一平、母は歌人および小説家の岡本かの子 |
1917年 |
大正6年、東京・青山にある青南小学校に入学。その後、小伝馬町の十思小学校に転校する |
1929年 |
昭和4年、18歳のとき父の仕事により、一家でフランスに渡る。パリを拠点として、フランスの美術に触れ合う |
1932年 |
フランス南部に位置したポール・ローザンベール画廊で、パブロ・ピカソの作品「水差しと果物鉢」に衝撃を受ける |
1933年 |
22歳のとき、最年少で抽象芸術運動を代表する芸術家集団「アプストラクシオン・クレアシオン協会」に参加。協会主催の出展会にも出品する |
1936年 |
アプストラクシオン・クレアシオン協会を退会 |
1940年 |
フランスでの約10年の滞在期間を経て、29歳で帰国する |
1947年 |
のちの実質的な妻であり、養女にもなる敏子と出会う |
1949年 |
読売新聞社主催の第1回日本アンデパンダン展に「赤い兎(油絵)」を出品する |
1950年 |
読売新聞社主催の現代美術自選代表作十五人展に「露天(油絵)」をはじめ、11作品を出品する |
1951年 |
日本橋三越にて、戦後初の個展「岡本太郎展」を開催する |
1952年 |
伊奈製陶常滑本社にて、陶作品「顔」を制作 |
1953年 |
フランス南部に位置するヴァロリスに渡り、ピカソと会う |
1955年 |
ヘリコプターに搭乗して、銀座の夜空に光で絵を描く |
1955年 |
大映のSF映画「宇宙人東京に現わる」の宇宙人のデザインや色彩指導を担当する |
1959年 |
プロ野球球団・近鉄バファローのシンボルマークを制作 |
1964年 |
東京オリンピックの参加記念メダルをデザイン |
1965年 |
週刊朝日に、エッセイ「岡本太郎の眼」を連載する |
1967年 |
沖縄県・久高島に残る「風葬」を撮影した写真が物議を醸す |
1968年 |
メキシコにて「明日の神話(油絵)」が完成する |
1969年 |
愛知県犬山市の日本モンキーパーク内に現存する「若い太陽の塔」を制作 |
1970年 |
大阪・日本万国博覧会のテーマシンボル「太陽の塔」が完成 |
1971年 |
パリのフォーブル・サントノーレ芸術祭に出品した「樹人」が、祭りの王様に選ばれる |
1973年 |
パリでポール・ヌムールより刊行された版画集で、代表作家30名に選ばれる |
1976年 |
フランスで版画集「De´chirure」、画集「TARO OKAMOTO 対極の中の遊び」が出版される |
1977年 |
スペイン国立版画院に、銅版画「石と樹」が収蔵される(日本人作家初の快挙) |
1982年 |
テレホンカード第1号となる「遊ぶ字」シリーズをデザインし、現・NTT)より発売される |
1984年 |
フランス政府より芸術文化勲章「オフィシエ」を受章する |
1985年 |
こどもの城のシンボルモニュメント「こどもの樹」を制作 |
1987年 |
JR発足イベント「さよなら国鉄・新生JR」にて記念メダル「出発」を制作 |
1989年 |
平成元年、フランス政府より芸術文化勲章「コマンドゥール」を受章する |
1994年 |
三重県で開催された世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント「であい」を制作する |
1996年 |
平成8年、急性呼吸不全にて死去。享年84歳 |