佐藤朝山について
福島県相馬郡で生まれた佐藤朝山(さとう ちょうざん)は、代々宮彫り師の家に生まれた彫刻家で佐藤玄々(げんげん)の名前で知られています。本名を清蔵といい、「朝山」、「玄々」は号です。1950年から「玄々」の号を冠するようになりました。さまざまな代表作を残したことで知られていますが、横山大観に天才と言われた彫刻家としても有名です。
佐藤朝山(玄々)は、幼い頃から宮彫師の父と叔父に木彫を学び、17歳で上京したのち、山崎朝雲を師事し木彫の修練に励みます。独立の際に、「朝山」の号を山崎朝雲から貰い受けますが、後に朝雲と不仲になり「玄々」の号を名乗るようになります。
朝山(玄々)は、作品のバリエーションが非常に豊富であり、手のひらサイズの鼠を作ったかと思えば、かなりのスケールを誇る「天女像」まで平然と仕上げてしまいます。そのため、彼のアトリエはびっくり箱のようなユニークな様相でした。彼が制作した「天女像」は、現在でも日本橋三越本店の正面玄関に飾られています。
彼が特に力を入れていたブロンズ作品はとても温かみがあり、鑑賞する人たちの心を大いに和ませました。他の彫刻家とは明らかに一線を画した存在であり、この分野において明治をリードしていた彫刻家のひとりと言えるでしょう。朝山(玄々)の手法やマインドは確実に昭和の名匠たちに受け継がれています。
後年の有名な芸術家たちのなかにも、彼を近代彫刻の祖として挙げる人が少なくありません。技量が卓越しているのはもちろんですが、常人では到達できない発想によるパフォーマンスが素晴らしいからです。彼のアトリエと作品の多くが戦火で失われてしまったのは、日本の大きな損失といっても過言ではありません。
略歴
1888年 | 福島県相馬郡の代々宮彫り師の家に生まれる |
1905年 | 17歳で上京 |
1906年 | 山崎朝雲に師事 |
1913年 | 朝山の号を貰い独立 |
1914年 | 再興日本美術院第一回展に「呪詛」を出品。日本美術院同人に推薦される |
1919年 | 30歳で結婚。大森馬込にアトリエを構える |
1922年 | 小林古徑、前田青邨とともに官費留学により2年間渡仏。フランスの彫刻家、アントワーヌ・ブールデルに師事 |
1924年 | 帰国 |
1935年 | 帝国美術院会員に任命される。「朝山彫刻集」を刊行 |
1936年 | 改組第1回帝展に「八咫烏」を出品し、政府買い上げとなる |
1937年 | 帝国芸術院会員 |
1939年 | 紀元2600年記念行事の「和気清麻呂像」の制作で選ばれる |
1939年 | 朝山の号を返上し山崎朝雲との師弟の関係を絶つ |
1945年 | 戦争によりアトリエが全焼。「八咫烏」などの作品が焼失する |
1948年 | 玄々と号する |
1949年 | 京都妙心寺塔頭大心院に移住しアトリエとする |
1960年 | 天女像を10年がかりで完成させる |
1963年 | 大心院で死去。享年75歳 |