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取扱作家

佐藤朝山(玄々)(さとう ちょうざん(げんげん))

1888年-1963年

買取できる品目

佐藤朝山について

福島県相馬郡で生まれた佐藤朝山(さとう ちょうざん)は、代々宮彫り師の家に生まれた彫刻家で佐藤玄々(げんげん)の名前で知られています。本名を清蔵といい、「朝山」、「玄々」は号です。1950年から「玄々」の号を冠するようになりました。さまざまな代表作を残したことで知られていますが、横山大観に天才と言われた彫刻家としても有名です。

佐藤朝山(玄々)は、幼い頃から宮彫師の父と叔父に木彫を学び、17歳で上京したのち、山崎朝雲を師事し木彫の修練に励みます。独立の際に、「朝山」の号を山崎朝雲から貰い受けますが、後に朝雲と不仲になり「玄々」の号を名乗るようになります。

朝山(玄々)は、作品のバリエーションが非常に豊富であり、手のひらサイズの鼠を作ったかと思えば、かなりのスケールを誇る「天女像」まで平然と仕上げてしまいます。そのため、彼のアトリエはびっくり箱のようなユニークな様相でした。彼が制作した「天女像」は、現在でも日本橋三越本店の正面玄関に飾られています。

彼が特に力を入れていたブロンズ作品はとても温かみがあり、鑑賞する人たちの心を大いに和ませました。他の彫刻家とは明らかに一線を画した存在であり、この分野において明治をリードしていた彫刻家のひとりと言えるでしょう。朝山(玄々)の手法やマインドは確実に昭和の名匠たちに受け継がれています。

後年の有名な芸術家たちのなかにも、彼を近代彫刻の祖として挙げる人が少なくありません。技量が卓越しているのはもちろんですが、常人では到達できない発想によるパフォーマンスが素晴らしいからです。彼のアトリエと作品の多くが戦火で失われてしまったのは、日本の大きな損失といっても過言ではありません。

略歴

1888年 福島県相馬郡の代々宮彫り師の家に生まれる
1905年 17歳で上京
1906年 山崎朝雲に師事
1913年 朝山の号を貰い独立
1914年 再興日本美術院第一回展に「呪詛」を出品。日本美術院同人に推薦される
1919年 30歳で結婚。大森馬込にアトリエを構える
1922年 小林古徑、前田青邨とともに官費留学により2年間渡仏。フランスの彫刻家、アントワーヌ・ブールデルに師事
1924年 帰国
1935年 帝国美術院会員に任命される。「朝山彫刻集」を刊行
1936年 改組第1回帝展に「八咫烏」を出品し、政府買い上げとなる
1937年 帝国芸術院会員
1939年 紀元2600年記念行事の「和気清麻呂像」の制作で選ばれる
1939年 朝山の号を返上し山崎朝雲との師弟の関係を絶つ
1945年 戦争によりアトリエが全焼。「八咫烏」などの作品が焼失する
1948年 玄々と号する
1949年 京都妙心寺塔頭大心院に移住しアトリエとする
1960年 天女像を10年がかりで完成させる
1963年 大心院で死去。享年75歳

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