埼玉県熊谷市と絵画の歴史
埼玉県の北部に位置する熊谷市は、市の北側を利根川が、南側を荒川が流れます。熊谷の地名の由来は諸説あり、「平安時代末期の武将が熊を退治した」「荒川が大きく蛇行し曲がりくねっていることを『曲谷(くまがい)』とよんだ」などありますが、平安時代には「くまがい(くまがや)」の地名は定着したと推測されています。豊かな土壌が広がり穀倉地帯だった熊谷は、鎌倉時代以降熊谷氏や斎藤氏など多くの武将の根拠地となりました。江戸時代になると中山道が整備され、熊谷には宿場が置かれました。明治時代になると、高崎線が開通し、交通の要衝として発展しました。昭和時代には、1933年(昭和8年)に熊谷市が誕生し、1982年(昭和57年)には上越新幹線が開通して熊谷駅が開業します。埼玉県北部地域の経済的な拠点となっており、農業産出額、製造品出荷額、年間商品販売額のいずれも県内有数の規模を有します。近年は、2019年(令和元年)には「ラグビーワールドカップ2019」の3試合が「熊谷ラグビー場」で開催されました。また、国内有数の「暑い街」としても知られ、静岡県浜松市とともに「最高気温観測史上1位」を記録した都市でもあります。
熊谷市のみならず埼玉県の経済発展に貢献した人物として「長島恭助(ながしまきょうすけ)」がいます。長島恭介は、1901年(明治34年)に現在の熊谷市で生まれ、大学を卒業後、現在の埼玉りそな銀行の前身にあたる武州銀行に入行し、その後埼玉銀行の頭取などを務めます。その一方、各種団体の要職に就き、文化、教育、福祉の発展に尽くしました。長島恭介の生家は「長島記念館」として活用されています。公益財団法人長島記念財団が運営する施設で、絵画や刀剣など長島恭介が収集したコレクションを公開しています。公開されている絵画作家・作品として『川合玉堂・春風青水』『横山大観・木菟之図』『中川一政・薔薇』などがあげられます。
熊谷市にゆかりのある作家を紹介します。「奥原晴湖(おくはらせいこ)」は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した日本画家で、「野口小蘋(のぐちしょうひん)」とともに明治の女流南画家の双璧といわれています。茨城県で生まれた奥原は、「渡辺崋山」に傾倒し南画の技法を学びます。のちに上京し多くの文人と交流し、画室「墨吐煙雲楼(ぼくとえんうんろう)」を開き、後進の指導に努めました。指導を受けた一人に「岡倉天心」がいます。晩年は現在の熊谷市に居住し、細密な筆づかいで描いた作品を制作しました。
「森田恒友(もりたつねとも)」は、明治から昭和時代初期にかけて活躍した洋画家です。現在の熊谷市で生まれた森田は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し「熊谷守一」らと親しくなります。卒業後は「山本鼎」らと美術雑誌を創刊しました。1914年(大正3年)にヨーロッパに渡り、帰国後はヨーロッパで学んだ技法を生かし、関東平野や利根川沿いの自然を題材にした作品を制作しました。1922年(大正11年)に、「梅原龍三郎」「岸田劉生」「中川一政」らとともに「春陽会」を設立しました。
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【熊谷市の絵画買取対象作品】
日本画、洋画、現代アート、リトグラフ、掛け軸、浮世絵、版画、仏画、山水画、花鳥画、木版画、屏風、書、襖絵、ガラス絵、板絵、エッチング、シルクスクリーン、色紙、短冊、古文書、和本、手紙、葉書、古書、地図、肉筆、古筆、画賛、版画、油絵、水彩画、中国絵画、中国掛け軸、朝鮮絵画、その他希少価値が高い歴史的な絵画作品、その他有名作家作品
熊谷市での強化買取中の絵画作家
横山大観
1868年に茨城県水戸市に生まれた横山大観。東京美術学校日本画科の第一期生であり、日本美術院を再興した人物としても有名です。岡倉天心に師事し、アメリカ、ヨーロッパなどで展覧会を開くなど活躍します。富士山を題材にした作品を多く描いています。文展審査委員や帝国美術院会員を務め、第一回の文化勲章を受章しています。代表作品は「屈原」「無我」など。
小林和作
山口県吉敷郡にて地主の息子として生まれた日本の風景画を主に描く洋画家です。1904年京都市立美術工芸学校「日本画科」に入学後、川北霞峰に師事。1910年に、第4回文展に「椿」を出品し入選を果たします。第7回文展でも「志摩の波切村」が入選しますが、その後は中々、入選できず新たに木炭画なども学びます。1922年に上京した際に、目にした「梅原龍三郎」「中川一政」の作品に衝撃を受け、それまでは日本画を描いていましたが、洋画家へ転向を決意します。
転向後は、梅原龍三郎・中川一政・林武らに油彩画を学び春陽会展に出品し、2年連続で春陽会賞を受賞し、「上高地の秋」以降は、春陽会会員となりました。画家以外、コレクターとしての顔を持ち、肉筆浮世絵・文人画を好み作家ものは、富岡鉄斎・村上華岳など幅広く蒐集した人物としても有名です。