京都府京都市と絵画の歴史
京都市は、京都府の南部に位置し、京都府の府庁所在地です。政令指定都市で、北区、上京区、左京区、中京区、東山区、山科区、下京区、南区、右京区、西京区、伏見区の11区で構成されています。東アジアでは古来、「天子様の住む都」を京、京師、京都と呼んできました。日本でも飛鳥京などが「京都」と呼ばれていました。平安京を京都と呼ぶことは、平安時代後期に定着したと考えられています。また、平安京のことを「洛中」という呼び方も平安時代以降使われるようになっています。
8世紀の終わりに、長岡京から平安京に遷都し、平安時代が始まると同時に、江戸時代の終わりまで天皇が住む都としてあり続けました。鎌倉時代以降武士中心の世の中になりましたが、江戸幕府は京都所司代・京都町奉行を設置して、幕府直轄領としました。また、江戸時代にかけて文化や工芸の中心地として大いに栄えました。明治時代になると、天皇は江戸(東京)へ移りましたが、京都は歴史を生かした産業や先端技術を持つ産業が発展しました。また、京都には京都大学など多くの大学が設置されるようになりました。1889年(明治22年)に京都市が誕生します。1956年(昭和31年)には政令指定都市に移行し、現在に至ります。
京都市にゆかりのある作家として「堂本印象」を紹介します。堂本印象は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本画家です。京都市で生まれた堂本は、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)を卒業後、帝展で入選を重ねます。以後、帝展や日展の審査員を務めながら、「京都画壇」で活躍しました。日本画に限らず、抽象表現や障壁画などの作品も制作しました。1961年(昭和36年)には文化勲章を受章し、1973年(昭和48年)には、京都市名誉市民に選ばれました。京都市北区には「京都府立堂本印象美術館」があり、堂本印象のコレクションを収蔵・公開しています。堂本印象の他、京都市出身の作家として、「池大雅」「伊藤若冲」「尾形光琳」「狩野永徳」「上村松園」「加山又造」「竹内栖鳳」「富岡鉄斎」「今井俊満」「梅原龍三郎」などがあげられます。
京都市には、多くの美術館があります。左京区にある「京都国立近代美術館」は、京都画壇に関する作品を多く収集・展示しています。収蔵されている作家として、「藤島武二」「横山大観」「岸田劉生」「金山平三」「藤田嗣治」「小磯良平」「橋本関雪」「パブロ・ピカソ」などがあげられます。左京区にある「京都市美術館」は、明治時代以降の日本画や洋画などを所蔵しています。所蔵している作家として、「岡田三郎助」「安井曾太郎」「池田遙邨」「金島桂華」「前田青邨」などがあげられます。
他に京都市にある美術館として、古美術を多く所蔵している「細見美術館」(左京区)、「野村美術館」(左京区)、朝鮮半島にゆかりのある作品を展示している「高麗美術館」(北区)などがあります。
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【京都市の絵画買取対象作品】
日本画、洋画、現代アート、リトグラフ、掛け軸、浮世絵、版画、仏画、山水画、花鳥画、木版画、屏風、書、襖絵、ガラス絵、板絵、エッチング、シルクスクリーン、色紙、短冊、古文書、和本、手紙、葉書、古書、地図、肉筆、古筆、画賛、版画、油絵、水彩画、中国絵画、中国掛け軸、朝鮮絵画、その他希少価値が高い歴史的な絵画作品、その他有名作家作品
京都市での強化買取中の絵画作家
白髪一雄
白髪一雄は、1924年兵庫県尼崎市に生まれた具体を代表する世界的に有名な抽象画家です。ロープにつかまり、床一面のキャンパスに素足で描く「アクションペインティング」が特徴的。2014年のパリオークションで記録した5億円超の落札額は世界の注目を集めました。
また、世界的なコーヒーチェーンで有名なスターバックスのCEOであるハワード・シュルツが、白髪の力作「臙脂」を所持していたことも話題になります。代表作品「高尾」、「激動する赤」、「地劣星 活閃婆」など。
片岡球子
1905年(明治38年)北海道札幌市に生まれます。幼いころから絵を好んで描いており、また勉強にも熱をいれており、一時期医者を目指していたこともあります。横山大観、小林古径、前田青邨とも交流があり、火山や富士山に興味を示し、全国の山を題材にして作品を描きます。
「我楽洞」では、先代の社長(現会長)が球子先生のお弟子さんと知り合いで、その縁が元で親しくなり球子先生が100才の時に「我楽洞」の屋号(看板)を書いて頂きました。この看板は球子先生にとって最初で最後の物です。