茶道具と大阪府箕面市の歴史
大阪府の北部に位置し、約14万人が暮らす箕面市。北側に接する豊能町をはじめ、池田市や豊中市など複数の地方自治体が囲います。豊能町を源流とする箕面川は、箕面市内を縦断するなか、見どころの1つが“天下の名瀑”と称される箕面大滝です。紅葉の名所としても人気を博す落差33mの箕面大滝は、箕面市の由来を持つことでも知られています。滝の流水フォルムが、米などを選別する農具「箕」の表「面」に見えることから、箕面(みのお)と呼んだ説が有力です。
箕面大滝などを有するこの山間エリア一帯は、国定公園に指定されており(別称:明治の森)、南下するにつれて箕面駅などの市街地が広がります。さらに箕面大滝~箕面駅までの区間は、知る人ぞ知る箕面市の“大人スポット”が目白押し。野口英世像を皮切りに、名茶室「隣松亦無庵」や宝くじの発祥地とされる「瀧安寺」、そこから西江寺などを経て箕面駅へと続きます。殊に隣松亦無庵は、明治・大正期を代表する京都の作庭家「7代・小川治兵衞」が手がけた、由緒ある茶室です。1700年代から続く小川治兵衞は、12代目が今日に生粋の技術を伝えています。そんな隣松亦無庵では定期的に裏千家流の茶道教室が開催されるほか、風情ある四季折々の茶会も好評です。
なお箕面市の周辺一帯の茶道具に関しては、炭入れに定評があります。これに付随するのが箕面市に隣接し、能勢菊炭(池田炭)の産地である大阪府豊能町です。800年の歴史を誇る「能勢菊炭」は香りに優れ火持ちも長いことから、現代まで「茶の湯には最高の炭」と伝えられてきた経緯があります。ちなみに箕面大滝から豊能町方面に進んだ場所に鎮座する勝尾寺も、郊外ながら箕面市で人気の観光名所です。前述した瀧安寺と西江寺、そして勝尾寺は箕面開運にまつわる「昇運スポット」の名で親しまれています。
箕面市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
箕面市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
箕面市での強化買取中の茶道具作家
吉田織部
吉田織部(ふるた おりべ)は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将であり、茶人や芸術家としても知られる人物です。
武将茶人である吉田織部は、豊臣秀吉や徳川家康、徳川秀忠の茶の湯の指南役としても活躍しました。織部流の祖として茶道に大きな影響を与え、南山城・東大和1万石の大名でもありました。茶道具や建築、作庭など幅広い活動を通じて織部好みの流行を生み出しました。
現代でも織部焼で広く知られ、漫画ヘウゲモノで吉田織部の名前を知ったという人も少なくないです。また、吉田織部は千利休の弟子であり、利休の「人と違う事をしろ」という教えを守り利休とは異なる個性的な美を追求しました。利休亡き後は「天下の茶人」となり、織部流の祖として茶道界で称えられています。
益田鈍翁
益田鈍翁(ますだ どんのう)は、三井財閥の最高経営者として知られ、実業家として成功した後に茶人としても名を馳せました。彼は「千利休以来の大茶人」と称されるほどの評価を受けています。
鈍翁は小田原に別邸「掃雲台」を建て、数寄者との茶会を催し交流を深めました。彼の影響で小田原や箱根が近代茶人の拠点となりました。また、原三渓や松永耳庵と共に近代三大茶人としても知られています。彼の名前の由来は、1908年に手に入れた楽焼茶碗「鈍太郎」だと言われています。鈍翁は美術品の収集家でもあり、海外流出を防ぐために日本の美術品を収集していたとも言われています。彼は91歳で亡くなり、墓所は護国寺にあります。