茶道具と奈良県奈良市の歴史
千利休から伝わる現代の茶道文化、ひいては茶道具にまで及ぶ歴史のルーツを持つのが奈良県奈良市です。かつての奈良市で生まれ育ち、のちに“侘び茶”のベースを築いた「村田珠光」に端を発します。まだ千利休も、その師匠である武野紹鴎も生まれる以前の話です。村田珠光は11歳で現在の奈良市菖蒲池町にある「称名寺」に出家し、僧として20歳の時に上洛。室町幕府の芸事や唐物奉行として仕えた「能阿弥」から茶の湯を学び、30歳頃から京都・大徳寺で禅の薫陶を受けたといわれています。
なお能阿弥といえば、足利将軍家のコレクション管理にあたった室町随一の目利き人。村田珠光も京都時代の約20年間で、国内外の茶道具を数多く収集したと伝えられています。現存するものは少ないものの、銀閣寺の建立で名高い8代将軍・足利義政から譲り受けた唐物肩衝茶入「松屋」は、その1つです。また当初はブームにあった中国陶磁器の傾倒から、格下とされた国内の信楽焼などの収集に変わっていったことも“珠光名物”の特徴といわれています。
そんな村田珠光の記録解明などに努めたのが、奈良市の塗師「松屋久政」です。珠光は40代前半で帰郷し、約10年にわたり称名寺に構えた「草庵」で独自の侘茶を普及。その教えは珠光没後も奈良の地に根差し、この風習を受け継いだ1人が松屋久政でした。久政は堺や京都に出向いては茶会に出席し、竹野紹鴎や千利休など交流の幅も広げたと伝えられています。久政を筆頭とする親子3代によって残した「松屋会記」は、現存する最古の茶会記として高名です。ちなみに珠光は晩年、再び京都に身を置き、能阿弥の推挙により8代将軍・足利義政の茶道師範を務めました。こうした村田珠光の足跡を称え、近年の奈良市は「茶道発祥の地」とも呼ばれています。
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奈良市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
奈良市での強化買取中の茶道具作家
益田鈍翁
益田鈍翁(ますだ どんのう)は、三井財閥の最高経営者として知られ、実業家として成功した後に茶人としても名を馳せました。彼は「千利休以来の大茶人」と称されるほどの評価を受けています。
鈍翁は小田原に別邸「掃雲台」を建て、数寄者との茶会を催し交流を深めました。彼の影響で小田原や箱根が近代茶人の拠点となりました。また、原三渓や松永耳庵と共に近代三大茶人としても知られています。彼の名前の由来は、1908年に手に入れた楽焼茶碗「鈍太郎」だと言われています。鈍翁は美術品の収集家でもあり、海外流出を防ぐために日本の美術品を収集していたとも言われています。彼は91歳で亡くなり、墓所は護国寺にあります。
角谷一圭
角谷一圭(かくたにいっけい)は、1904年に大阪で生まれた釜師であり、「茶の湯釜」の重要無形文化財保持者です。
角谷一圭は、幼い頃から鋳物師の父の仕事を手伝っていました。茶の湯に興味を持ち、本格的な茶道具の制作を志すようになりました。21歳で初めて工芸展に出品した鉄瓶が受賞し、43歳のときには制作した釜を昭和天皇に献上する栄誉に浴しました。
74歳で人間国宝に認定され、その後も多くの優れた作品を生み出し、1999年に95歳で生涯を閉じました。
代表的な作品には「独楽釜」「末広釜」などがあります。彼の才能と技術は多くの人々に称賛され、日本の釜師の一員として名を刻みました。