茶道具と埼玉県さいたま市浦和区の歴史
地図的に新旧の中山道と、JR埼京線が縦断する、さいたま市浦和区。西側から順に埼玉県庁などの行政機関が集まる国道17号線(中山道)、旧中山道、JR埼京線が走ります。さいたま市をホームタウンとする、Jリーグの強豪サッカークラブ「浦和レッズ」の知名度が全国区です。そんな浦和区といえば、うなぎ、調神社やパルコ古くから知られています。
JR埼京線寄りの旧中山道は、かつて宿場町として興隆し、行き交う客人にもてなしたのが「浦和のうなぎ」です。旧浦和市時代は現在の桜区や緑区を抱える大所帯で、両端を流れる荒川と綾瀬川に挟まれた地形でした。浦和宿が繁栄していた頃は、まだ鰻が生息する沼や湿地も多くあったと伝えられています。こうして生まれた地元特有の食文化を今日に伝える老舗の1つが、旧中山道沿いの「蒲焼山崎屋」です。なお浦和区内には、いまだに約30軒のうなぎ店があるといわれています。
この蒲焼山崎屋から旧中山道沿いを少し南下した“小径界隈”にあるのが、浦和レッズの必勝祈願でも有名な調神社です。調と書いて「つき」と読み、転じて「月」の由縁からウサギを神の使いとし、運が“つく”などのいわれも。勝負運や金運のパワースポットとして人気を博します。
これら浦和駅の西口エリアとは別に、北浦和駅の周辺は文教都市として名残をとどめているのが特徴です。北浦和駅の西口から徒歩約2分の大きな公園内に、埼玉県立近代美術館と茶室(恭慶館)があります。埼玉県立近代美術館は印象派の巨匠「ルノワール」から、埼玉ゆかりの日本画の大家「橋本雅邦」までコレクションが豊富です。恭慶館は茶道や華道をはじめとする、浦和区ゆかりの文化を後世に紡ぐための活動拠点。特に公園内の緑地に囲まれた茶室が人気で、貸し出しを行う茶道具も多くの種類が揃います。
さいたま市浦和区で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
お手元にある大切な茶道具は、専門の鑑定士にお任せいただいた方が傷つけることなくより高い金額で査定ができます。数十年に渡る鑑定実績をもつ、我楽洞の茶道具専門の鑑定士がご自宅にうかがって、大切な茶道具を出張査定および買取をさせて頂きます。
主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
さいたま市浦和区で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
さいたま市浦和区での強化買取中の茶道具作家
永樂善五郎
永樂善五郎(えいらく ぜんごろう)は、約500年続く京焼の名家であり、土風炉・焼物師の家元です。始まりは室町時代で、創設者「西村宗禅」が土風炉の依頼を受けたことからでした。現在の当代は十七代で、国内外で個展を開催し、新たなスタイルを追求しています。
永樂家は多くの名工を輩出し、京焼の名声を高めてきました。特に十代了全は「天明の大火」による損失から「永樂」印を用いるようになり、この時期より千家十職として認められたといわれています。
益田鈍翁
益田鈍翁(ますだ どんのう)は、三井財閥の最高経営者として知られ、実業家として成功した後に茶人としても名を馳せました。彼は「千利休以来の大茶人」と称されるほどの評価を受けています。
鈍翁は小田原に別邸「掃雲台」を建て、数寄者との茶会を催し交流を深めました。彼の影響で小田原や箱根が近代茶人の拠点となりました。また、原三渓や松永耳庵と共に近代三大茶人としても知られています。彼の名前の由来は、1908年に手に入れた楽焼茶碗「鈍太郎」だと言われています。鈍翁は美術品の収集家でもあり、海外流出を防ぐために日本の美術品を収集していたとも言われています。彼は91歳で亡くなり、墓所は護国寺にあります。