茶道具と静岡県静岡市葵区の歴史
駿府城を築いた徳川家康ゆかりの静岡市葵区。その由来は、徳川将軍家を象徴する「葵紋」です。天下の家紋が区名に採用され、皇居のような堀に囲まれた駿府城公園として名残をとどめています。静岡駅の北口を起点とするメインストリート、御幸通り沿いを600mほど進んだ静岡県庁の裏手に構えるのが、駿府城公園です。
静岡県庁の正面一帯には、ビル群を擁する葵区の市街地が広がります。この市街地は徳川家康の制定した駿府町割、いわゆる“ご当地城下町”としての面影を残すのが特徴の1つです。駿府町割が由来の茶町は、静岡茶の産業化で発展してきた歴史を有します。徳川家康は茶道具の目利きで知られているものの、実は静岡茶のポテンシャルも見抜いていたと言えるでしょう。茶町以外には両替町や呉服町などがあり、当時は96もの町が配置されたと伝えられています。
なお葵区には、徳川家康が好んだ“鷹狩り”に由来する地名も。駿府城公園の東側付近にある、鷹匠地区です。鷹匠は町割とは別に武家屋敷が軒を連ね、現在の新静岡駅から北側のエリアにあたります。新静岡駅の前を走る北街道沿いには、昔ながらのアーケード商店街が形成されています。また鷹匠地区には、東海屈指と名高い茶道具店が複数あるのも、特筆すべき点です。
こうした徳川家康の偉業や功績は、県庁に隣接する静岡市歴史博物館を中心に発信しています。一方、静岡駅北口の前にある静岡市美術館は、洗練されたモダンな空間から近現代の著名なコレクションなどを伝える、葵区の人気スポットです。さくらももこ展や竹久夢二コレクションはもちろん、飲食類の提供からコンサートワークショップまで、交流を目的とした多彩なシーンにも定評があります。
静岡市葵区で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
静岡市葵区で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
静岡市葵区での強化買取中の茶道具作家
魚住為楽
魚住為楽(うおずみ いらく)は、現代の日本工芸における銅鑼づくりの名家であり、3代目が当代を務めています。「魚住為楽」の名は、金工家の屋号で、大正時代から受け継がれています。
初代為楽は銅鐸の研究を通じて砂張鋳造技術を確立し、茶道具や銅鑼などを手掛け、その評価は高く、重要無形文化財保持者として人間国宝にも認定されています。初代為楽の長男である幸平が二代目を任されるも戦死し、まだ高校生だった安彦が後継者となります。安彦は茶人としても活動し、多くの茶道具を制作しました。
安彦は63歳で紫綬褒章を受章し、2年後に三代目「魚住為楽」を襲名しました。為楽は重要無形文化財の「銅鑼」技術保持者として認定され、2012年に薬師寺に「砂張水指」を献上しました。現在は後継者の指導に努めながら、魚住為楽の伝統を守り続けています。
中川浄益
中川浄益(なかがわ じょうえき)は、安土桃山時代から400年以上続いた金物師の家系で、千家十職の一つです。彼らは鉄と鋳物を主軸とし、錺師として知られていました。
初代の與十郎は豊臣秀吉が開催した「北野大茶会」で、千利休から薬鑵の依頼をきっかけに中川浄益を名乗を名乗るようになったといわれています。
歴代の当代のなかで、三代目と七代目は特に著名で、三代目は砂張製法を発明したことで知られています。七代目は砂張槌物の名人と呼ばれた当代であり、中川家の再興に貢献し、「中川家 中興の祖」と称された人物でした。
九代目以降は茶道の衰退により活動が低迷し、現在は十一代目中川浄益を最後に継承が途絶えています。中川浄益の作品は評価が高く、岩戸山の柱金具なども手がけました。代表作として「青金寿老」「布袋像2体」「毛織建水」などがあげられます。