茶道具と東京都目黒区の歴史
数多くの芸能人が暮らす目黒区といえば、意外にも“馬”との関わりが深い歴史を有します。タモリからキムタク、桑田佳祐、王貞治、はたまた市川猿之助まで、そうそうたる面々が目黒区に自宅を構えるといわれるなか、実は元を辿れば農村地帯。所説あるなか、田んぼの畔道に駿馬の由来から、馬畔(めぐろ)=目黒になったとされています。当時は駿馬を「め」、畔を「くろ」と呼んだそうです。なお江戸時代には徳川家康が、現在の駒場公園(目黒区駒場)を鷹狩りの地として定めた記録も残されています。駒とは馬を指し、鷹狩りのために使った馬をとめておく場から「駒場」になった説が有力です。
ここから派生してか、江戸中期頃から駒場を中心に馬の牧場化が進みました。駒場には明治維新後に農学校が設けられ、それが現在の駒場東大前駅の周辺に見られる“学園エリア”として名残をとどめています。さらに補足すると明治後期~昭和初期にかけて、現在の下目黒界隈に「目黒競馬場」が実在した歴史も。およそ30年間と短命に終わったものの、現在の府中市にある東京競馬場の前身として、江戸時代から続く“駿馬伝説”の系譜を目黒に残しました。ちなみにJRAのレースにあるG2・目黒記念は、日本の競馬史における「最も古い重賞競走」で知られています。
一方、茶道や茶道具に関する歴史的事象に挙げられるのが、下目黒界隈に根差したとされる「煎茶道」です。ともに下目黒3丁目にある海福寺と五百羅漢寺は、煎茶道の祖「隠元禅師」が開基。いずれも元々は都内の別の場所にあった黄檗宗の末寺で、明治後期に下目黒に移されています。現代においては目黒区と隣接するエリア、こちらもかつて牧場地の由来を持つ世田谷区「下馬」で2023年に開催された、煎茶道・黄檗売茶流の冷煎花茶会が記憶に新しいところです。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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目黒区で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
目黒区での強化買取中の茶道具作家
飛来一閑
飛来家は一閑張細工師の家系であり、千家十職の一つである飛来一閑(ひき いっかん)の代々の当主が襲名しています。彼らは一閑張の技法を使い、茶道具や漆工芸品を制作してきました。飛来家は明から日本に渡り、千宗旦から注文を受けるようになり、表千家の御用細工師となりました。一閑張細工は、紙を重ね貼りして漆を塗る技法で、茶道具の棗や香合などを作るために用いられます。飛来家は京都に拠点を置き、現在は16代目が当代を務めています。一閑張細工は丈夫で重厚な漆工芸品であり、高級料亭や人形やお面などに使用されています。
松平不昧
松平不昧(まつだいら ふまい)は、松江藩の七代目藩主であり、江戸時代を代表する茶人でもありました。不昧は藩の財政再建に尽力し、「松江藩中興の祖」と称されました。同時に茶の湯や禅学にも熱心に取り組み、伊佐幸琢に師事し石州流を学びました。藩政の成功後は茶道具の収集に情熱を注ぎ、収集品は「雲州名物」と呼ばれ900点以上のコレクションを持ちました。
また、彼は「不昧流」という武家茶道の流派を確立し、気取らずに茶を楽しむスタイルが特徴でした。また、彼の思想が詰まった茶室「菅田菴」は重要文化財となり、松江市の人気スポットとなっています。