茶道具と千葉県八街市の歴史
近年の千葉県八街市といえば“ゴマキ弟議員”が世間を騒がせているものの、古くから定着する「落花生王国」は未だ健在です。千葉県の落花生の生産量における全国シェアは、実に8割強を誇ります。そして県内市町村別では、2位の千葉市と僅差ながら八街市が不動のトップを維持。とはいえ千葉市と八街市では、スケールが何かも違います。まず面積は千葉市が2万7000ha、これに対して八街市が7500haです。人口においても千葉市は6区から構成され約98万人、しばしば100万都市とも呼ばれています。他方、八街市は約6万7000人です。差は歴然でレベルの違いも明らかですが、八街市には地力があります。
八街市は物資難で喘いだ終戦直後から落花生栽培に注力。4年後には市全体の耕作地の8割が落花生畑となり、全国1位の生産量を誇りました。これに甘んじることなく、さらなる加速で再び4年後には落花生畑を9割以上に拡大させて以来、今日まで不動の首位をキープしているのです。新たな耕作地の確保や人手不足などの問題は懸念されますが、近い将来に王座陥落という非常事態に直面することはなさそうなところ。
それとは別にゴマキ弟こと後藤祐樹は、元アイドルグループ所属の芸能人として2023年に八街市議選に当選を果たした政治家です。かつて未成年での飲酒が発覚して芸能界を引退し、その後も2度の逮捕と服役も経験しているため、議員当選は大きな反響を呼びました。立候補の直前まで格闘技イベント「ブレイキングダウン」の選手として活躍し、当選後はタトゥーの除去がたびたび報じられたことも記憶に新しいところです。そんな八街市の茶道や茶道具に関しては、半世紀以上の空白から大多喜焼を復活させた「井口峰幸」が注目されています。八街市出身の井口峰幸は、房総エリアの大多喜町を拠点としており、茶陶の完成度に定評があります。
八街市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
八街市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
八街市での強化買取中の茶道具作家
原三渓
原三渓(はら さんけい)は、日本の実業家・美術品収集家で、近代三大茶人(鈍翁・三渓・耳庵)の一人です。
25歳頃から美術品の収集を始め、明治末期にはコレクションの一部を手放して国宝の仏画「孔雀明王像」を購入しています。また、1902年頃、三渓園と呼ばれる庭園を横浜に作り、10棟もの重要文化財を移築しました。1917年には茶室・蓮華院を建設し、多くの茶会を開催しました。三渓は芸術家を支援するだけでなく、一般市民にも日本文化を広めたいという思いを持っていた人物でした。
魚住為楽
魚住為楽(うおずみ いらく)は、現代の日本工芸における銅鑼づくりの名家であり、3代目が当代を務めています。「魚住為楽」の名は、金工家の屋号で、大正時代から受け継がれています。
初代為楽は銅鐸の研究を通じて砂張鋳造技術を確立し、茶道具や銅鑼などを手掛け、その評価は高く、重要無形文化財保持者として人間国宝にも認定されています。初代為楽の長男である幸平が二代目を任されるも戦死し、まだ高校生だった安彦が後継者となります。安彦は茶人としても活動し、多くの茶道具を制作しました。
安彦は63歳で紫綬褒章を受章し、2年後に三代目「魚住為楽」を襲名しました。為楽は重要無形文化財の「銅鑼」技術保持者として認定され、2012年に薬師寺に「砂張水指」を献上しました。現在は後継者の指導に努めながら、魚住為楽の伝統を守り続けています。