茶道具と山形県山形市の歴史
山形市は、山形県の中部東に位置する人口約24万人の市です。山形城の城下町として発展してきたという歴史があり、古墳時代の集落跡が山形市の北西部で発見されています。また、廃藩置県後には、村山郡山形が山形県の県庁所在地になり、その後複数の県の統合を経て、現在の山形県の県庁所在地となりました。
なお、山形市は俳聖松尾芭蕉ゆかりの地でもある山寺などの観光地も有しています。また、茶の湯釜の人間国宝「高橋敬典」は山形市の出身です。高橋敬典は、大正9年山形市に生まれの茶人で、昭和13年に家業の鋳物業を継ぎ、茶釜制作に専念しました。昭和25年には釜師でもある長野垤志氏と出会い、これをきっかけに茶の湯釜の制作に携わるようになり、昭和26年には日展で初入選を果たしました。以降7回の入選を果たし、斬新な造形や地肌、地紋に工夫を凝らした作品で高い評価を受けています。さらに、昭和36年には昭和天皇へ、昭和54年には皇太子殿下へと献上の釜を制作するなど、その才能がメディアで紹介され、多くの方に知られています。
山形市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
お手元にある大切な茶道具は、専門の鑑定士にお任せいただいた方が傷つけることなくより高い金額で査定ができます。数十年に渡る鑑定実績をもつ、我楽洞の茶道具専門の鑑定士がご自宅にうかがって、大切な茶道具を出張査定および買取をさせて頂きます。
主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
山形市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
山形市での強化買取中の茶道具作家
今井宗久
今井宗久(いまい そうきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人・茶人であり、茶湯の天下三宗匠の一人として知られています。宗久は茶の師でもある武野紹鴎宅に身を寄せて茶の湯を学びます。独立後は、戦国大名に鉄砲や茶器を売り、財を成します。
1568年、織田信長が上洛すると、宗久は古田織部の名品である織部焼や「松島の茶壺」「紹鷗茄子」などを信長に献上し、その信頼を得ました。しかし、信長から羽柴秀吉の時代になると茶の湯は千利休が牽引するようになり、静かに主役の座を譲ります。
1593年に73歳で亡くなりましたが、宗久のゆかりの茶室「黄梅庵」は、現在でもその歴史的価値は高く、多くの観光客が訪れています。
角谷一圭
角谷一圭(かくたにいっけい)は、1904年に大阪で生まれた釜師であり、「茶の湯釜」の重要無形文化財保持者です。
角谷一圭は、幼い頃から鋳物師の父の仕事を手伝っていました。茶の湯に興味を持ち、本格的な茶道具の制作を志すようになりました。21歳で初めて工芸展に出品した鉄瓶が受賞し、43歳のときには制作した釜を昭和天皇に献上する栄誉に浴しました。
74歳で人間国宝に認定され、その後も多くの優れた作品を生み出し、1999年に95歳で生涯を閉じました。
代表的な作品には「独楽釜」「末広釜」などがあります。彼の才能と技術は多くの人々に称賛され、日本の釜師の一員として名を刻みました。