茶道具と神奈川県鎌倉市の歴史
鎌倉市といえば、実は茶道文化も「古都」の名に見合った歴史を持ちます。それを象徴しているのが、800年の歴史を有する茶道具「鎌倉彫」です。源頼朝が開いた鎌倉幕府において中期の“仏具”に端を発する鎌倉彫は、室町時代には公家を中心に「鎌倉物」と重宝され、サイズのスリム化とともに茶道具として展開。この系譜をくむ三橋鎌幽が現代のトップランナーとして代々受け継ぐ鎌倉市坂の下にある工房「二陽堂」から、香合などの茶道具づくりを通じて鎌倉彫の魅力を伝えています。
また今日に紡ぐ伝統に関していえば、鎌倉市浄明寺地区を本拠とする宗徧流茶道の家元も、その1人。約350年にわたる歴史を11代家元が伝承しています。流祖の山田宗徧は現在の愛知県三河地方で茶人としての基盤を固め、晩年に江戸に出て千家の茶道を広めた歴史的な人物です。千利休の孫・宗旦から茶の湯を学んだ山田宗徧は、小堀遠州の次世代を担うキーマンとして頭角を現していきました。宗徧亡き後は江戸から佐賀、大坂などを経て、10代家元が鎌倉を本拠とし今日にいたります。
なお山田宗徧は生涯で収集した茶器コレクションに定評があるほか、自ら手がけた優品も多く残しており、2017年に鎌倉浄明寺地区の敷地内にある旧一条恵観山荘で行った「茶道具展」は話題をさらったほど。さらに補足すると、結婚式場などで利用される旧一条恵観山荘は、10代家元が京都から鎌倉に移転させた経緯も。この山荘は江戸初期の公家・一条恵観が京都に設けた別邸で、茶人・金森宗和とのゆかりを持つ国指定重要文化財です。金森宗和は京都で茶会を通して公家衆から信頼を集め、殊に一条恵観にとっては茶の湯の師匠にあたる間柄。2016年に旧一条恵観山荘で盛大に開かれた「恵観と宗和の再会茶会」は記憶に新しいところです。
鎌倉市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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鎌倉市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
鎌倉市での強化買取中の茶道具作家
吉羽與兵衛
吉羽與兵衛(よしは よへい)は、90年以上続く茶釜師の三代目であり、伝統的な京釜の真髄を受け継ぎつつ、新しい商品の提案も行っている職人です。
京釜は茶道で使用される特別な茶釜であり、その伝統を守りながら各種展覧会に出品し受賞しています。二代目も伝統を守りつつ研究制作に励み、作品を発表してきました。2008年には三代目に譲り、現在は三代目が活動しています。吉羽與兵衛の作る茶釜は昔ながらの伝統的な技法を用いており、茶釜や風炉、花入、湯沸などが販売されています。
中川浄益
中川浄益(なかがわ じょうえき)は、安土桃山時代から400年以上続いた金物師の家系で、千家十職の一つです。彼らは鉄と鋳物を主軸とし、錺師として知られていました。
初代の與十郎は豊臣秀吉が開催した「北野大茶会」で、千利休から薬鑵の依頼をきっかけに中川浄益を名乗を名乗るようになったといわれています。
歴代の当代のなかで、三代目と七代目は特に著名で、三代目は砂張製法を発明したことで知られています。七代目は砂張槌物の名人と呼ばれた当代であり、中川家の再興に貢献し、「中川家 中興の祖」と称された人物でした。
九代目以降は茶道の衰退により活動が低迷し、現在は十一代目中川浄益を最後に継承が途絶えています。中川浄益の作品は評価が高く、岩戸山の柱金具なども手がけました。代表作として「青金寿老」「布袋像2体」「毛織建水」などがあげられます。