茶道具と東京都北区の歴史
埼玉県との境目にある赤羽から、中心エリアの王子、鉄道の町として発展してきた田端まで、南北に細長い地形の東京都北区。実は一口に北区と言っても、東京以外に、大阪市や京都市など全国で11の政令指定都市に「北区」があります。ちなみに“元祖北区”は明治中期に設置された大阪市で、東京は終戦直後と3番目です。そんな東京都北区を象徴する町の1つに、古くから「せんべろの聖地」として親しまれている、赤羽が挙げられます。せんべろとは、1000円でベロベロになるまで飲酒できる、という俗語です。いまだに赤羽駅周辺には、リーズナブルな古き良き居酒屋が軒を連ねます。
一方の田端駅は目前にJR東日本東京支社の巨大ビルが立ち、周辺に大規模な2つの操車場を抱えるのが特徴です。中心エリアの王子は飛鳥山公園や北区役所、国立印刷局の王子工場などが王子駅を囲みます。また「紙のまち」として歩んできた歴史も、王子の特筆すべき点です。今から遡ること約150年前、“洋紙の大量生産”に着目した渋沢栄一は、川の水が良質だった王子に現在の日本製紙や旧王子製紙の前身にあたる工場を建設します。この狙いは、幕末からの転換期に需要増加を見込んだ「紙幣」にありました。
渋沢自身も晩年に飛鳥山公園内に別荘を設けているため、紙業発展の力の入れようを伺わせるところです。また渋沢栄一は飛鳥山邸に、のちに戦災で焼失してしまう茶室「無心庵」を設け、国内外の要人を招いては茶の湯をもてなしていたと伝えられています。こうした背景から東京都北区では、2019年に「渋沢栄一プロジェクト」が発足。行く行くは無心庵の再興を見据えており、2023年には旧渋沢庭園で野点による「飛鳥山大茶会」が開催され話題をさらいました。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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北区で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
北区での強化買取中の茶道具作家
長野垤志
長野垤志(ながの てつし)は、愛知県で生まれた鋳金家であり、釜師です。
最初は洋画家を志していましたが、鋳金に転じて山本安曇と香取秀真に師事しました。27歳のとき、帝展で初入選し、1933年に同展で出品した『青銅方盤』が特選となります。長野垤志は、花瓶や鐘などの作品や茶の湯釜の制作で評価を受けました。また、釜に関する研究や書籍の出版も行い、63歳で重要無形文化財「茶の湯釜」保持者(人間国宝)に認定されました。1977年に77歳で亡くなりました。
益田鈍翁
益田鈍翁(ますだ どんのう)は、三井財閥の最高経営者として知られ、実業家として成功した後に茶人としても名を馳せました。彼は「千利休以来の大茶人」と称されるほどの評価を受けています。
鈍翁は小田原に別邸「掃雲台」を建て、数寄者との茶会を催し交流を深めました。彼の影響で小田原や箱根が近代茶人の拠点となりました。また、原三渓や松永耳庵と共に近代三大茶人としても知られています。彼の名前の由来は、1908年に手に入れた楽焼茶碗「鈍太郎」だと言われています。鈍翁は美術品の収集家でもあり、海外流出を防ぐために日本の美術品を収集していたとも言われています。彼は91歳で亡くなり、墓所は護国寺にあります。