茶道具と神奈川県秦野市の歴史
日本一の名水が飲み放題の秦野市は、神奈川県で唯一の盆地として北側に丹沢山地、南側に大磯丘陵を抱えます。実は名水の由縁も、この稀有な形状からなる盆地にあるのです。秦野市には丹沢山地から流れ出る、地下水が豊富にたまっています。通常なら滞ることなく海へと向かいますが、それを塞いでいるのが大磯丘陵です。よって秦野市の地下には、長い年月をかけてたまった約7億5000トンもの天然水があるといわれています。いわば天然ろ過の “無料ウォーターサーバー”といったところでしょう。
現に秦野市内には10か所の湧水スポットが点在し、市街地に多いのも特徴です。2015年に環境省が実施した名水百選選抜総選挙で、秦野市の「おいしい秦野の水 丹沢の雫」が、おいしさ部門で1位に輝き、その名を全国区に。早くも翌年には“秦野の水”の売上が5倍増となり、全国紙や秦野市ゆかりのタウンニュースなどで報じられ話題をさらいました。ちなみに丹沢山地の麓から湧き出る「竜神の泉」は、山伏や登山者などが喉を潤した歴史を残す、旧来の定番スポットです。この付近を流れる水無川は、秦野市の自然スポット「秦野戸川公園」を経て市街地に入り、中心街の秦野駅前などを通過します。
茶道に関しては秦野戸川公園内に立つ茶室「おおすみ山居」、茶道具では秦野駅付近で営む「立花屋茶舗」がメジャーです。旧大住郡の由来を持つこの茶室では、年間を通して呈茶が振舞われ、秦野市民の茶会の開催場としても親しましています。秦野市本町にある立花屋茶舗は江戸幕末期の慶応元年創業で、静岡県のブランド「掛川茶」の販売や煎茶・抹茶に応じた茶道具類を取り揃える、神奈川屈指の老舗です。秦野市は極上の水が豊富に飲めるだけあって、茶の湯の盛況ぶりも伺わせます。
秦野市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
秦野市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
秦野市での強化買取中の茶道具作家
永樂善五郎
永樂善五郎(えいらく ぜんごろう)は、約500年続く京焼の名家であり、土風炉・焼物師の家元です。始まりは室町時代で、創設者「西村宗禅」が土風炉の依頼を受けたことからでした。現在の当代は十七代で、国内外で個展を開催し、新たなスタイルを追求しています。
永樂家は多くの名工を輩出し、京焼の名声を高めてきました。特に十代了全は「天明の大火」による損失から「永樂」印を用いるようになり、この時期より千家十職として認められたといわれています。
細川忠興
細川忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期の戦国武将であり、細川三斎としても知られる茶道三斎流の開祖です。
細川藤孝の子として生まれ、若くして紀州征伐に参戦し初陣を飾りました。信長の仲介で明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)と結婚し、茶人としても優れた才能を発揮しました。千利休の弟子となり、利休七哲の一人として名高く、利休門三人衆に数えられた武将の一人で利休の最期に立ち会った数少ない弟子の一人でもあります。
また、医学にも興味を持ち、徳川家康に仕えながら漢方薬の製作にも取り組んでいました。細川忠興は茶道と戦国武将、医学など文武両道の才能を持ち、その名を残しました。