茶道具と埼玉県草加市の歴史
「草加せんべい」だけがイメージされがちな、埼玉県草加市。実は埼玉県が誇る“市街地なのに名勝”指定を受けた「草加松原」があるからこそ、草加せんべいも誕生した経緯を有します。約1.5㎞区間に600本以上の松並木を携える草加松原は、松尾芭蕉の「奥の細道」における、ほぼ出発点。現在の足立区千住から日光街道を歩いた松尾芭蕉は、2番目の宿場町である草加で、綾瀬川沿いの松並木を目にしています。そして草加松原を象徴する百代橋で一句読みました。
これが煎餅のきっかけではありませんが、当時の草加宿はまだ旅籠が5軒程度と、にぎわいには欠ける規模だったそうです。それが150年後の幕末期には旅籠が約70件と興隆し、この間に煎餅づくりが始まったといわれています。なお草加宿は綾瀬川と並行するように、近場を約1.5㎞にわたって茶屋などが軒を連ね、現在の草加駅の東口界隈に名残をとどめています。
草加駅の東口からのびる大通りを800mほど直進すると、草加松原が視界に入り、遊歩道を満喫するコースが定番です。この地点から草加松原を北上していくと、まつばら綾瀬川公園や草加市文化会館などを通過します。まつばら綾瀬川公園は、草加市の秋の風物詩として定着しつつある「草加ふささら祭り」のメイン会場を担うなど、あらゆるイベントで使用される、ある意味で人気スポットです。
文化会館では煎餅づくりの体験ができるほか、離れとして併設する数寄屋建築の「漸草庵 百代の過客」も茶道体験が好評を博します。2019年に開館した「漸草庵 百代の過客」は、草加市ゆかりの日本文学研究者「ドナルド・キーン」による命名です。ドナルド・キーンは母国アメリカで「おくのほそ道」などの日本文化を広め、2008年には日本で文化勲章を受章したほど。草加市とは松尾芭蕉のつながりから、交流を深めました。
草加市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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草加市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
草加市での強化買取中の茶道具作家
土田友湖
土田友湖(つちだ ゆうこ)は千家十職の袋師で、袋師の当主が代々襲名している名称です。彼らは茶道具の仕覆や帛紗などの袋物を制作し、歴代の三千家に納めてきました。
土田家は彦根藩井伊氏に仕え、商家として西陣織の仲買人となりました。表千家の支援を受け、仕覆などを作るようになりました。現在は13代目が当主で、京都市中京区に仕事場を構えています。袋師は茶道具の袋物全般を制作し、茶道で使用される布製の道具を扱います。
細川忠興
細川忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期の戦国武将であり、細川三斎としても知られる茶道三斎流の開祖です。
細川藤孝の子として生まれ、若くして紀州征伐に参戦し初陣を飾りました。信長の仲介で明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)と結婚し、茶人としても優れた才能を発揮しました。千利休の弟子となり、利休七哲の一人として名高く、利休門三人衆に数えられた武将の一人で利休の最期に立ち会った数少ない弟子の一人でもあります。
また、医学にも興味を持ち、徳川家康に仕えながら漢方薬の製作にも取り組んでいました。細川忠興は茶道と戦国武将、医学など文武両道の才能を持ち、その名を残しました。