茶道具と神奈川県横須賀市の歴史
和洋の文化が共存する横須賀市は、ペリーの黒船来航に端を発します。浦賀沖に停泊していたペリー率いる黒船艦隊は久里浜に上陸し、早くも翌年には開国。明治維新の富国強兵に伴い、横須賀市に軍艦の造船工場(横須賀製鉄所)が設けられました。横須賀製鉄所は戦後にアメリカの海軍基地へと変わり、今日の横須賀市を象徴する“どぶ板通り”を発展させていった歴史があります。なお横須賀市は3つの米軍基地と、海上自衛隊を主とする同関連施設を30以上も抱えることから「海軍の街」という異名をとるほど。
そんな横須賀の米軍基地と京急本線・汐入駅の中間にある歓楽街が、どぶ板通りです。また戦後当時の米軍海兵から「母国に帰るにあたって何か忘形見でも」と頼まれ、どぶ板通りの店主がスタジアムジャンパーに日本ならではのデザインを刺繍で表現した“スカジャン”を誕生させています。スカジャンは70年以上の歴史を有する、横須賀市が発祥の伝統工芸品です。スカジャンにとどまらず、どぶ板通りからはジャズ音楽、重厚なネイビーバーガー、土産品としても人気の海軍カレーといった、横須賀市の代名詞的な文化の数々が生まれています。
横須賀市の魅力を語る上で三笠公園、くりはま花の国や横須賀美術館も外せません。米軍基地に隣接する三笠公園は、記念戦艦「三笠」が停泊する横須賀市きっての観光スポット。園内には無人の猿島に向かう、フェリー乗り場もあります。くりはま花の国は横須賀市の南部にある、小高く広大な緑地を生かした自然公園です。ペリーにまつわる浦賀や久里浜の街並みなど、広範囲にわたって一望できます。観音崎灯台の麓に立つ横須賀美術館は、横須賀湾に面したロケーションが自慢です。ガラス張りの建物が映える、関東有数の絶景スポットとして知られています。
横須賀市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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横須賀市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
横須賀市での強化買取中の茶道具作家
原三渓
原三渓(はら さんけい)は、日本の実業家・美術品収集家で、近代三大茶人(鈍翁・三渓・耳庵)の一人です。
25歳頃から美術品の収集を始め、明治末期にはコレクションの一部を手放して国宝の仏画「孔雀明王像」を購入しています。また、1902年頃、三渓園と呼ばれる庭園を横浜に作り、10棟もの重要文化財を移築しました。1917年には茶室・蓮華院を建設し、多くの茶会を開催しました。三渓は芸術家を支援するだけでなく、一般市民にも日本文化を広めたいという思いを持っていた人物でした。
奥村吉兵衛
奥村吉兵衛(おくむら きちべえ)は、歴代の三千家に掛軸、風炉先屏風、釜の敷物の一種である「紙釜敷」などを納めてきた家系で千家十職の表具師の名門です。
奥村家は、加賀藩前田家に仕えたのち、京都で表具屋として活動し、表千家に引き立てられました。現在は十二代目が当主で、京都市中京区に仕事場を構えています。表具師は、絵画や書などを布や紙を使って保存するために掛け軸や巻物に仕立てることや、屏風や襖などの仕立てから修理を行う職人で、表装技能士の国家資格も存在します。職業訓練校などで育成され、大戦後からその役割が重要視されています。