茶道具と石川県金沢市の歴史
「ひがし茶屋街でのタイムスリップ気分」などを求めて、訪れる人が後を絶たない石川県金沢市。呈茶で客をもてなす文化を色濃く残す、北陸最大の観光地です。北陸新幹線の開通に伴い、関東圏の知名度が跳ね上がりを見せました。ひがし茶屋街は200年もの伝統を、金沢市東山で紡いでいます。お座敷や茶道体験から人気スイーツの食べ歩きまで、まるで江戸時代のような金沢情緒が体感できる、王道スポットの1つです。
王道の上を行く、金沢市のシンボルもあります。多くの人を魅力する緑や風情を湛えながら、茶事を主体とした年間行事でもにぎわいを見せる金沢兼六園です。特に兼六園大茶会や百万石茶会は、約44万人の金沢市民のみならず、全国の茶道愛好家も注目することで知られています。なお兼六園の茶事を担う茶室「時雨亭」も有名です。
そんな兼六園の膝元にあるのが、加賀百万石の茶道具に見られる美術工芸品を収蔵する文教地区です。この界隈は中村記念美術館や国立工芸館など、10前後の文化的施設が集まります。中村記念美術館は千家十職の楽家初代・長次郎の「手枕」、黒織部や野々村仁清が主なコレクションです。国立工芸館はルネ・ラリックから近代数奇者の川喜田半泥子、美濃桃山陶の人間国宝・荒川豊蔵まで幅広く、分野も多岐にわたります。2023年に国立工芸館で行われた「ポケモン×工芸展 美とわざの大発見」が反響を呼んだことは、記憶に新しいところです。
これら文教地区とは別に、金沢市長町に名残をとどめる武家屋敷跡界隈の筆頭スポットでも、呈茶が受けられます。数奇屋建築と日本庭園から成る、ミシュラン2つ星の「武家屋敷跡 野村家」です。アメリカの庭園専門誌でランキング3位の実績をもって、ミシュランから評価を受けています。ちなみに野村家以外の武家屋敷跡は、一般公開されていません。
金沢市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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金沢市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
金沢市での強化買取中の茶道具作家
飛来一閑
飛来家は一閑張細工師の家系であり、千家十職の一つである飛来一閑(ひき いっかん)の代々の当主が襲名しています。彼らは一閑張の技法を使い、茶道具や漆工芸品を制作してきました。飛来家は明から日本に渡り、千宗旦から注文を受けるようになり、表千家の御用細工師となりました。一閑張細工は、紙を重ね貼りして漆を塗る技法で、茶道具の棗や香合などを作るために用いられます。飛来家は京都に拠点を置き、現在は16代目が当代を務めています。一閑張細工は丈夫で重厚な漆工芸品であり、高級料亭や人形やお面などに使用されています。
細川忠興
細川忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期の戦国武将であり、細川三斎としても知られる茶道三斎流の開祖です。
細川藤孝の子として生まれ、若くして紀州征伐に参戦し初陣を飾りました。信長の仲介で明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)と結婚し、茶人としても優れた才能を発揮しました。千利休の弟子となり、利休七哲の一人として名高く、利休門三人衆に数えられた武将の一人で利休の最期に立ち会った数少ない弟子の一人でもあります。
また、医学にも興味を持ち、徳川家康に仕えながら漢方薬の製作にも取り組んでいました。細川忠興は茶道と戦国武将、医学など文武両道の才能を持ち、その名を残しました。