茶道具と長野県松本市の歴史
漆黒の松本城をシンボルとする長野県松本市は、約23万人が暮らします。松本駅から北東およそ1km地点に構えるのが、国宝・松本城です。この区間を中心に市街地が形成されています。また松本城の景観を保つ風致地区のため、建物の高さ制限などから、タワーマンションのような高層ビルがないのも松本市の中心部の特徴です。松本市は山々に囲まれた盆地で、横長に広がりを見せます。松本城からは西側の奥地にそびえる北アルプス、東側の美ヶ原高原などが一望できます。
北アルプスの玄関口にあたるのが、松本市を代表する観光スポットの上高地です。全体的に平坦な道を散策できる上高地は標高1500mで、河童橋や大正池といった見どころが知られています。上高地温泉ホテルや坂巻温泉旅館などに見られる、ちょっとした秘湯体験を求めに訪れる人も少なくありません。
実は松本城の近くにも、有名な温泉街があります。美ヶ原温泉と浅間温泉です。美ヶ原温泉の方がやや近くにあり、いずれも松本城から5km以内に位置しています。ちなみに美ヶ原高原は大分、奥です。浅間温泉は「松本の奥座敷」の異名をとる、歴代の松本藩主ゆかりの名湯。穴場の旅館があると評判の温泉街です。美ヶ原高原は標高2000mの牧草地帯で、リゾート気分を満喫できます。
文化芸術面では、草間彌生ワールド全開の松本市美術館が人気を博します。松本市美術館は信州松本が生んだ世界的な現代美術家、草間彌生の版画を中心としたコレクションを数多く所蔵。館内には草間彌生を象徴する「南瓜」が常設展示されているほか、入口に設置した迫力のあるマリオゲームのような巨大オブジェが出迎えます。そのほか人間国宝の陶芸家、濱田庄司の茶道具コレクションを一定数で収蔵している点も、松本市美術館の魅力を伺わせるところです。
松本市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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松本市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
松本市での強化買取中の茶道具作家
角谷一圭
角谷一圭(かくたにいっけい)は、1904年に大阪で生まれた釜師であり、「茶の湯釜」の重要無形文化財保持者です。
角谷一圭は、幼い頃から鋳物師の父の仕事を手伝っていました。茶の湯に興味を持ち、本格的な茶道具の制作を志すようになりました。21歳で初めて工芸展に出品した鉄瓶が受賞し、43歳のときには制作した釜を昭和天皇に献上する栄誉に浴しました。
74歳で人間国宝に認定され、その後も多くの優れた作品を生み出し、1999年に95歳で生涯を閉じました。
代表的な作品には「独楽釜」「末広釜」などがあります。彼の才能と技術は多くの人々に称賛され、日本の釜師の一員として名を刻みました。
益田鈍翁
益田鈍翁(ますだ どんのう)は、三井財閥の最高経営者として知られ、実業家として成功した後に茶人としても名を馳せました。彼は「千利休以来の大茶人」と称されるほどの評価を受けています。
鈍翁は小田原に別邸「掃雲台」を建て、数寄者との茶会を催し交流を深めました。彼の影響で小田原や箱根が近代茶人の拠点となりました。また、原三渓や松永耳庵と共に近代三大茶人としても知られています。彼の名前の由来は、1908年に手に入れた楽焼茶碗「鈍太郎」だと言われています。鈍翁は美術品の収集家でもあり、海外流出を防ぐために日本の美術品を収集していたとも言われています。彼は91歳で亡くなり、墓所は護国寺にあります。