茶道具と東京都千代田区の歴史
東京都千代田区は1周5kmほどの皇居を軸とし、外堀の八方に主要エリアが配置されています。今ではすっかり定着した“皇居ラン”の南側地点にそびえ立つのが、桜田門から見据える官庁街の霞が関です。密集する省庁群の隣には、首都高速を隔てた国会議事堂を擁する永田町も。桜田門から西側に進んだ半蔵門は、千鳥ヶ淵の桜が見わたせる絶景スポット。北側の田安門は、九段下駅と北の丸公園の中継地点です。そんな北の丸公園といえば、科学技術館もさることながら、ライブの聖地こと日本武道館も抱えます。
そして、このエリアの北の縁を流れる神田川沿いに続くのが、飯田橋駅、水道橋駅、御茶ノ水駅、そして日本を代表する電気街の秋葉原駅です。なお水道橋駅と御茶ノ水駅の付近には、それぞれ裏千家流による人気の茶道教室もあります。もう1つ、このエリアにおいて千代田区の特色に欠かせないのが、本の街・神保町です。約130軒の古書店が集まり、この総数は日本一ともいわれています。これにとどまらず、近年の神田神保町といえば、400超の店舗がひしめくカレー激戦区。いまや神保町のカレーありきで、千代田区を巡る外国人観光客も多いそうです。
再び皇居ランに戻り、大手町を経由して東京駅へと向かいます。東京駅の皇居側、丸の内口の両翼に仁王門の如く構えるのが「丸ビル」です。複合商業施設として、カルチャーやエンターテイメントなども提供する丸ビル。昨今では2023年に開催した企画展「豊臣秀吉ゆかりの金茶道具セット」が話題になりました。ちなみに丸ビルの周辺には出光美術館や静嘉堂文庫美術館という、ともに国宝を所蔵する著名な文化的スポットも。特に茶道具に関しては出光美術館の名物コレクションで、日本に3点しか現存しない古代中国産の曜変天目茶碗(国宝)が広く知られています。
千代田区で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
千代田区で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
千代田区での強化買取中の茶道具作家
駒沢利斎
駒沢利斎(こまざわりさい)は、千家十職の一人で指物師の家元が代々襲名する名称です。駒沢家は江戸時代中期に指物の制作を始め、江戸時代に活躍した七代目は、黒田正玄や飛来一閑などと共同で作品を制作しました。千家との関わりは千利休の孫である千宗旦の時代から深まりました。表千家からの指名を受け、駒沢家の指物はすべて「利休好み」の茶道具が作られることとなりました。
十四代まで続いた駒沢利斎ですが、1977年に68歳で亡くなって以降、後継者不在の状態が続いています。
細川忠興
細川忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期の戦国武将であり、細川三斎としても知られる茶道三斎流の開祖です。
細川藤孝の子として生まれ、若くして紀州征伐に参戦し初陣を飾りました。信長の仲介で明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)と結婚し、茶人としても優れた才能を発揮しました。千利休の弟子となり、利休七哲の一人として名高く、利休門三人衆に数えられた武将の一人で利休の最期に立ち会った数少ない弟子の一人でもあります。
また、医学にも興味を持ち、徳川家康に仕えながら漢方薬の製作にも取り組んでいました。細川忠興は茶道と戦国武将、医学など文武両道の才能を持ち、その名を残しました。