茶道具と東京都世田谷区の歴史
東京都で最多の約92万人が暮らす世田谷区。東京都民が約1400万人、そのうち23区全体が約970万人のため、都心に暮らす1割弱が世田谷区民という計算になります。これだけの規模を誇る世田谷区なので、やはり茶道事情も盛んです。茶事の代表的な開催場に、玉川地区の旧清水家住宅書院と、成城地区の猪股庭園が挙げられます。2023年に旧清水家住宅書院で行われた、煎茶道の体験茶会は記憶に新しいところです。成城学園前駅から徒歩10分圏内の高級住宅地にたたずむ猪股庭園は、銀閣寺を作庭した田中泰阿弥による“苔”の世界観が見どころの1つ。茶室を備える家屋も、文化勲章の受章者である吉田五十八の数寄屋建築というラインナップです。
そんな吉田五十八といえば、世田谷区を代表する文化的施設とした名高い「五島美術館」を手がけたことでも知られています。世田谷区上野毛にある五島美術館は、約6000坪という広大な敷地を有する、東急電鉄の創業者「五島慶太」の膨大なコレクション群を所蔵。その総数は5000点にのぼり、国宝も5点と私設美術館としては異例のコレクションです。五島慶太は実業家の傍ら、近代数寄者の1人に数えられる「茶人」としても名を馳せました。そのため同コレクションには、桃山陶の最高峰と称される「鼠志野茶碗」や朝鮮産の名品「井戸茶碗」など、高級茶道具が名を連ねます。
五島自身も暮らした同美術館の敷地内に立つ、茶室「冨士見亭」も象徴的です。五島美術館以外では世田谷区岡本にある三菱財閥のコレクションを収蔵する静嘉堂文庫美術館のほか、妙深庵と大原庵も茶会および茶道教室で人気を博します。特に静嘉堂文庫美術館は東京丸の内にギャラリーを移転したものの、世界に3点しか現存しない国宝茶碗「曜変天目」が高名です。
世田谷区で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
世田谷区で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
世田谷区での強化買取中の茶道具作家
武野紹鴎
武野紹鴎(たけの じょうおう)は、千利休の師匠であり、わび茶の「中興の祖」として知られる人物です。
1502年に生まれ、三条西実隆に師事し古典・和歌を学んだ後、藤田宗理と村田珠光の弟子・十四屋宗悟らから茶の湯を学びました。臨済宗・大徳寺の古岳宗旦のもとで出家し、茶の湯に専念し「佗び茶」の道を追求します。紹鴎は千利休をはじめ多くの弟子を持ち、娘婿の今井宗久や津田宗及など、戦国武将たちにも継承されました。
駒沢利斎
駒沢利斎(こまざわりさい)は、千家十職の一人で指物師の家元が代々襲名する名称です。駒沢家は江戸時代中期に指物の制作を始め、江戸時代に活躍した七代目は、黒田正玄や飛来一閑などと共同で作品を制作しました。千家との関わりは千利休の孫である千宗旦の時代から深まりました。表千家からの指名を受け、駒沢家の指物はすべて「利休好み」の茶道具が作られることとなりました。
十四代まで続いた駒沢利斎ですが、1977年に68歳で亡くなって以降、後継者不在の状態が続いています。