茶道具と愛知県豊田市の歴史
豊田市は言わずと知れた“世界のトヨタ自動車”が拠点を構え、かつ愛知県で断トツの敷地面積を誇ります。約9万haの敷地面積は愛知県全土の2割弱を占め、2位の新城市が約5万haのため、その差は歴然です。ちなみに16区で構成する県庁所在地の名古屋市でさえ3万ha(5位)そこそこ、いかに豊田市が広いかを物語る数値と言えるでしょう。
トヨタグループは地名にまでしたトヨタ町(三河豊田駅東側一帯)に本社ビルがあります。傘下に置く企業はデンソーや愛知製鋼、はたまたダイハツ、日野自動車など主要17社。軽自動車からトラック・バスまで自動車部門を独占するほか、トヨタホームに見られる建築や不動産関係などにも展開しているのが特徴です。豊田市の名称も、創始者・豊田佐吉の功績によって、昭和34年に拳母市から変更されています。
そんなトヨタに次ぐ功労者として広く知られているのが、民芸の森ゆかりの「本多静雄」です。明治末期の豊田市花本町に生まれた本多静雄は、現在のエフエム愛知やNTTドコモ東海などを設立した実業家。その傍ら陶芸研究家としても、猿投古窯跡の存在を探り当てたことで「世紀の発見」と世を騒がせました。猿投窯は古墳時代~室町時代まで約1000年も続いた焼き物で、その間の各時代を築いた宮廷に認められてきた歴史が、本多静雄の発見によって次々と明かされていくことに。本多静雄は豊田市と瀬戸市にまたがる猿投山を中心に調査し、長きにわたった空白の期間を解き明かしました。
晩年の昭和52年には、豊田市で第1号となる名誉市民に選ばれています。なお研究活動のきっかけとなったのが当時、豊田市平戸橋に窯を築いていた歴史的陶芸家「加藤唐九郎」との出会いです。これを機に本多は屋敷を構えた民芸の森(平戸橋)で茶道を覚え、茶道具類などのコレクション収集にも走るようになったと伝えられています。
豊田市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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豊田市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
豊田市での強化買取中の茶道具作家
金森重近(宗和)
金森重近(かなもり しげちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した茶人で、「宗和流茶道」の開祖として知られます。
重近(宗和)は父から茶道を学びます。宗和流は「姫宗和」と呼ばれ、京都の公家たちの間で人気を博しました。重近は千利休の教えを尊重し、独自の流派に取り入れたとされています。
また、重近は京焼の名工「野々村仁清」の才能を見出したことでも知られていて、加賀藩の藩主前田利常からも高く評価されていました。宗和流茶道は金沢や故郷の高山を中心に伝えられ、1964年には高山市で無形文化財に登録されました。現在でも国際イベントや歴史関連の場で宗和流茶道が紹介され、ますます人気を集めています。
永樂善五郎
永樂善五郎(えいらく ぜんごろう)は、約500年続く京焼の名家であり、土風炉・焼物師の家元です。始まりは室町時代で、創設者「西村宗禅」が土風炉の依頼を受けたことからでした。現在の当代は十七代で、国内外で個展を開催し、新たなスタイルを追求しています。
永樂家は多くの名工を輩出し、京焼の名声を高めてきました。特に十代了全は「天明の大火」による損失から「永樂」印を用いるようになり、この時期より千家十職として認められたといわれています。