茶道具と京都府宇治市の歴史
京都府宇治市は、よくコンビニやドラッグストアなどで見かけるペットボトルの緑茶「綾鷹」の故郷で知られています。宇治市陰山町に本社兼工場を構え、創業450年の歴史を誇る上林春松本店が、コカ・コーラ社との共同開発で誕生した綾鷹。上林家は豊臣秀吉の「御茶頭取」を務めた、由緒ある茶師の名門です。JR宇治駅のロータリーを進んだ、風情ある家並みが自慢の宇治橋通り商店街には、家宝の茶道具や非公開の名茶室・松好庵などを備える「宇治・上林記念館」もあります。
この宇治妙楽地区の南側に接する宇治善法地区には、足利将軍家がルーツの歴史的な宇治茶園も現存。堀井七茗園が受け継ぐ、奥ノ山茶園です。室町幕府の3代将軍・足利義満が「宇治七名園」を認定し、その1つである奥ノ山が唯一、現存しています。こうした宇治茶の振興や茶道の普及を目的に設けられたのが、堀井七茗園から東に400mほど進んだ市営茶室「対鳳庵」です。10円硬貨のデザインかつ宇治市の人気スポット「平等院鳳凰堂」の向かいにあることから、対鳳庵と名付けられた経緯を有します。
そんな宇治市では1月恒例の対鳳庵での初釜を皮切りに、5月の全国煎茶道大会や10月の宇治茶まつりなど、年間を通した茶会イベントが盛んです。お茶と宇治のまち交流館・茶づなで2022年に開かれた「太閤宇治川大茶会」は記憶に新しいところ。ちなみに平等院鳳凰堂の前を流れる宇治川を隔てた袂には、宇治市ゆかりの煎茶器を展示する「朝日焼」のギャラリーも。遠州七窯の1つに数えられる朝日焼は、1700年代の宇治市を中心に興隆した「煎茶道」で知名度を上げた、京都府を代表する茶陶です。安土桃山時代に端を発して以来、16代にわたって今日に技術や文化を紡いでいます。
宇治市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
宇治市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
宇治市での強化買取中の茶道具作家
駒沢利斎
駒沢利斎(こまざわりさい)は、千家十職の一人で指物師の家元が代々襲名する名称です。駒沢家は江戸時代中期に指物の制作を始め、江戸時代に活躍した七代目は、黒田正玄や飛来一閑などと共同で作品を制作しました。千家との関わりは千利休の孫である千宗旦の時代から深まりました。表千家からの指名を受け、駒沢家の指物はすべて「利休好み」の茶道具が作られることとなりました。
十四代まで続いた駒沢利斎ですが、1977年に68歳で亡くなって以降、後継者不在の状態が続いています。
今井宗久
今井宗久(いまい そうきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人・茶人であり、茶湯の天下三宗匠の一人として知られています。宗久は茶の師でもある武野紹鴎宅に身を寄せて茶の湯を学びます。独立後は、戦国大名に鉄砲や茶器を売り、財を成します。
1568年、織田信長が上洛すると、宗久は古田織部の名品である織部焼や「松島の茶壺」「紹鷗茄子」などを信長に献上し、その信頼を得ました。しかし、信長から羽柴秀吉の時代になると茶の湯は千利休が牽引するようになり、静かに主役の座を譲ります。
1593年に73歳で亡くなりましたが、宗久のゆかりの茶室「黄梅庵」は、現在でもその歴史的価値は高く、多くの観光客が訪れています。