茶道具と神奈川県大和市の歴史
神奈川県の県央地区に属し、縦長にのびる地形に約24万人が暮らす大和市。その中央部に位置するのが大和市役所で、周囲には東京都町田市や相模原市南区、横浜市瀬谷区などが隣接しています。小田急江ノ島線・桜ヶ丘駅の西側は、隣の綾瀬市とまたがる、アメリカ海軍と海上自衛隊の共同使用による厚木航空基地が広がるのも、この大和市周辺エリアの特徴です。桜ヶ丘駅の付近は国道467号線と中原街道が交わる地点で、国道沿いを南下すると高座渋谷駅などを経て湘南海岸に向かいます。
この国道467号線を正反対側に2㎞ほど北上した地点にあるのが、大和駅周辺に形成されているメイン市街地です。大小さまざまの商店街が集まり、大和市きってのにぎわいを見せます。相鉄本線と小田急江ノ島線が停車する大和駅の周辺には、日本一の利用者数を誇る図書館も。生涯学習センターや屋内こども広場、市立図書館などが入る複合施設「シリウス」です。2016年の開設以来、3年間で来館者数が1000万人を突破し、日本一のスピード記録を樹立したことで話題になりました。
大和駅から北上した隣の鶴間駅周辺には冒頭の大和市役所があり、大型ショッピングモールや市立病院なども立ちます。この界隈は市内を横切る大山道が走り、かつて宿場町として栄えたことでも有名です。再び北上すること大和市の最北端を担うのが、つきみ野駅や中央林間駅を抱えるエリアです。小田急江ノ島線の中央林間駅は田園都市線の終着駅でもあり、この界隈は大和駅とは対照的な洗練された街並みで知られています。そんな中央林間駅から西側に5分ほど進んだ場所にあるのが、多胡記念公園に設けられた茶室「慈緑庵」です。ここは約120人が所属する大和茶道会の本拠地で、表千家から江戸千家まで7つの流派による茶会や茶道教室が行われています。
大和市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
大和市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
大和市での強化買取中の茶道具作家
角谷一圭
角谷一圭(かくたにいっけい)は、1904年に大阪で生まれた釜師であり、「茶の湯釜」の重要無形文化財保持者です。
角谷一圭は、幼い頃から鋳物師の父の仕事を手伝っていました。茶の湯に興味を持ち、本格的な茶道具の制作を志すようになりました。21歳で初めて工芸展に出品した鉄瓶が受賞し、43歳のときには制作した釜を昭和天皇に献上する栄誉に浴しました。
74歳で人間国宝に認定され、その後も多くの優れた作品を生み出し、1999年に95歳で生涯を閉じました。
代表的な作品には「独楽釜」「末広釜」などがあります。彼の才能と技術は多くの人々に称賛され、日本の釜師の一員として名を刻みました。
細川忠興
細川忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期の戦国武将であり、細川三斎としても知られる茶道三斎流の開祖です。
細川藤孝の子として生まれ、若くして紀州征伐に参戦し初陣を飾りました。信長の仲介で明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)と結婚し、茶人としても優れた才能を発揮しました。千利休の弟子となり、利休七哲の一人として名高く、利休門三人衆に数えられた武将の一人で利休の最期に立ち会った数少ない弟子の一人でもあります。
また、医学にも興味を持ち、徳川家康に仕えながら漢方薬の製作にも取り組んでいました。細川忠興は茶道と戦国武将、医学など文武両道の才能を持ち、その名を残しました。