茶道具と静岡県熱海市の歴史
伊豆半島の付け根に位置し、古代より湯治場として栄えてきた静岡県熱海市。東京方面から向かう“伊豆の玄関口”を担い、奈良時代を起源とする温泉がメインのリゾート観光地です。徳川家康が熱海の温泉を好んだことから、その名が全国に知れわたったと伝えられています。この名残を色濃くとどめているのが、秋恒例の「湯くみ道中パレード」です。桶に入った熱海の源泉を神輿のようにして担ぎ、熱海駅~湯前神社までの2㎞区間を練り歩きます。
これは湯前神社の秋季例大祭に乗じたもので、かつて徳川将軍家が熱海から江戸城まで源泉を運ばせた歴史を今に伝える名物イベントです。湯前神社が鎮座する界隈は熱海温泉の中心地で、周囲には熱海市役所が位置するほか、近場を走る線路を隔てた先に伊豆屈指のパワースポット「来宮神社」もあります。願い事が叶うと口コミを集める大楠が、来宮神社における見どころの1つです。
そんな熱海市の見どころといえば、熱海梅園やMOA美術館もメジャーなスポットに数えられます。来宮神社から1㎞ほど西に向かった緑地に広がる熱海梅園。日本一早咲きの梅と、日本で最も遅い紅葉という二刀流で知られています。熱海梅園で恒例の「梅まつり」と「もみじまつり」では、熱海芸妓による演芸会と野点茶会が定番です。熱海駅から北側に進んだ山の上に立つMOA美術館も、錦秋の世界を味わえる見事な「茶の庭」を抱えています。
茶の庭には150本を超える“もみじ”が植えられているほか、MOA美術館内に再現された黄金茶室も有名です。日本文化を伝えるMOA美術館は3件の国宝を中心に、国内外の絵画や彫刻に見られる膨大なコレクションを揃えます。茶道具に関しては、楽家初代・長次郎による黒楽茶碗「あやめ」、瀬戸黒茶碗「ワラヤ」、高取茶入「横嶽」などが代表的なコレクションです。
熱海市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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熱海市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
熱海市での強化買取中の茶道具作家
駒沢利斎
駒沢利斎(こまざわりさい)は、千家十職の一人で指物師の家元が代々襲名する名称です。駒沢家は江戸時代中期に指物の制作を始め、江戸時代に活躍した七代目は、黒田正玄や飛来一閑などと共同で作品を制作しました。千家との関わりは千利休の孫である千宗旦の時代から深まりました。表千家からの指名を受け、駒沢家の指物はすべて「利休好み」の茶道具が作られることとなりました。
十四代まで続いた駒沢利斎ですが、1977年に68歳で亡くなって以降、後継者不在の状態が続いています。
今井宗久
今井宗久(いまい そうきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人・茶人であり、茶湯の天下三宗匠の一人として知られています。宗久は茶の師でもある武野紹鴎宅に身を寄せて茶の湯を学びます。独立後は、戦国大名に鉄砲や茶器を売り、財を成します。
1568年、織田信長が上洛すると、宗久は古田織部の名品である織部焼や「松島の茶壺」「紹鷗茄子」などを信長に献上し、その信頼を得ました。しかし、信長から羽柴秀吉の時代になると茶の湯は千利休が牽引するようになり、静かに主役の座を譲ります。
1593年に73歳で亡くなりましたが、宗久のゆかりの茶室「黄梅庵」は、現在でもその歴史的価値は高く、多くの観光客が訪れています。