茶道具と鹿児島県鹿児島市の歴史
鹿児島市は鹿児島県の中央に位置する県庁所在地で、鹿児島湾を囲むように広がり、火山で有名な桜島も市内に含まれています。室町時代初め頃に、平安時代に築城された東福寺城に島津氏が入ります。1549年には、フランシスコ・ザビエルが上陸し、日本初のキリスト教伝来の地となりました。江戸時代になると、薩摩藩の支配下になり、鹿児島は城下町として発展します。江戸時代の後半から明治維新にかけて、薩摩藩は日本の政治において重要な地位を占めました。また、いち早く欧米の文明を取り入れ、反射炉や溶鉱炉が造られるなど、近代工業の発祥の地となりました。1889(明治22)年に鹿児島市が誕生します。戦後は、観光や商工業が発展し、また周辺自治体との合併が進み、現在に至ります。
鹿児島市では、鹿児島茶の生産が行われており、その歴史は鎌倉時代初期にまで遡ります。平家の落人が阿多白川(現在の南さつま市)で茶の栽培を始めたという説や、栄西が感応寺(出水市野田)を開山して茶の種子を播種したという説があります。また、1319年には般若寺の住持が宇治から茶の木を持ち帰り、製茶技術を伝えたとされています。これらの出来事が鹿児島における茶文化の基盤を築きました。
江戸時代には、薩摩藩主である島津氏も商品作物として茶の栽培を奨励し、藩内各地で栽培されるようになりました。当時は鹿児島県の北部地域が中心で、屋敷の生垣などで栽培されました。明治時代以降は輸出用茶葉の生産がさかんになり、薩摩半島南部で多くの茶畑が開墾されました。静岡茶と比べると知名度が低く、苦しい時代が長く続きましたが、2000年代になりペットボトル用茶葉の生産に力を入れ、機械化をはじめとする生産体制の整備を進め、生産量や栽培面積を増やしていった結果、最近では、生産量は全国2位、生産額では静岡県を上回り全国一を誇るようになりました。
江戸時代に鹿児島を治めた島津氏は、茶道にゆかりのある武家です。16世紀前半には島津忠良(日新公)が茶の栽培を推奨し、自らも茶の栽培に取り組みました。その後、薩摩の地で茶の文化が広がります。豊臣秀吉の九州平定以後、島津義弘(惟新公)は千利休に師事し、茶道を学びました。また、朝鮮出兵の際には、秀吉からの恩賞として唐物茶入「漢作肩衝 銘 平野」が義弘に下賜されました。朝鮮から兵を引き上げる際には朝鮮から陶芸職人を連れ帰り、のちに薩摩焼を生むきっかけとなりました。江戸時代初期に、島津義弘から古田織部に薩摩焼の茶入が送られ、織部はその出来栄えを賞賛した記録が残されています。
現代においても鹿児島市では茶道が盛んです。例えば、鹿児島県立歴史・美術センター黎明館では、2022(令和4)年に「茶の湯と薩摩」展が開催され、薩摩の茶道文化や歴史を紹介しました。また、地元の茶道愛好家によって、定期的な茶会が開かれ、茶道の普及と発展に努めています。
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主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
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鹿児島市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
鹿児島市での強化買取中の茶道具作家
大西清右衛門
大西清右衛門(おおにし せいえもん)は、京都を発祥とする茶器の職人が名乗る屋号で、江戸時代初期から続く茶釜師です。千家十職の一つであり、京都市中京区の三条釜座に工房を構え、現在は十六代目が当代を引き継いでいます。茶道に精通する人たちに向けた茶釜の製造に特化し、「鋳造」という工法を用います。
大西清右衛門は、初代の大西浄林から始まり、現在まで十六代続いています。特に七代の浄玄は民衆に広く知られ、美しい釜を手がけた名工として称えられています。
大西清右衛門美術館では、書物や歴代の作品が展示され、年間イベントでは茶会も行われています。
吉田織部
吉田織部(ふるた おりべ)は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将であり、茶人や芸術家としても知られる人物です。
武将茶人である吉田織部は、豊臣秀吉や徳川家康、徳川秀忠の茶の湯の指南役としても活躍しました。織部流の祖として茶道に大きな影響を与え、南山城・東大和1万石の大名でもありました。茶道具や建築、作庭など幅広い活動を通じて織部好みの流行を生み出しました。
現代でも織部焼で広く知られ、漫画ヘウゲモノで吉田織部の名前を知ったという人も少なくないです。また、吉田織部は千利休の弟子であり、利休の「人と違う事をしろ」という教えを守り利休とは異なる個性的な美を追求しました。利休亡き後は「天下の茶人」となり、織部流の祖として茶道界で称えられています。