茶道具と埼玉県川越市の歴史
埼玉県内でトップクラスの観光客数を誇る、埼玉県川越市。埼玉県民の総数に匹敵する730万人超の観光客が、年間で小江戸川越を訪れます。なお埼玉県の総数は約733万人、川越市が約35万人です。単純計算でも1日あたり2万人の来訪になるので、毎日がイベントのように盛り上がっていることを伺わせます。そんな川越のシンボルが、観光目的の不動のトップ2「時の鐘」と「蔵造り」です。時の鐘は江戸時代初期に建てられた時報で、休むことなく小江戸の街なかに時間を知らせています。
そしてメインストリートの一番街にずらりと立ち並ぶのが、これまた江戸時代から変わらずたたずむ蔵造りです。明治26年に起きた小江戸の大火で街の3割方が焼失するも、耐火性の強い蔵造りは大半が残りました。復興の際には蔵造りに学んで変える人も多く、今日の一番街が形成されていきました。平成4年に電線の地中化を進めたことで、平成11年には伝建地区に指定されています。
そこから10年かけて観光に力を入れ、平成21年に放送されたNHK連続テレビ小説「つばさ」が川越市を舞台とした内容で一世風靡。放送後から観光客が増え始め、右肩上がりに客足をのばしていきました。一番街は常にアップデートし続け、新たなグルメや変わり種を押さえてインスタ映えを狙う人は多くいます。また比較的に新店が目立つなか、世代交代で巻き返しを図る老舗も少なくありません。
明治3年創業の松津園茶舗(連雀町)が、その1つです。店名の通り茶葉販売をメインとしながら、瀟洒な煎茶道具やオーナー(祖母)の孫娘が考案したカフェスタイルの提供で人気を博します。同じく長峰園(札の辻)も狭山茶のカフェスタイルで、茶道具の品揃えに定評がある茶舗です。一番街とは別に、川越喜多院の近くに鎮座する「中院」は、遠州茶道ゆかりの大々的な茶事の開催場として知られています。
川越市で茶道具買取を専門とする我楽洞では、これまで希少性の高い茶道具をはじめ、有名な作家や職人が制作した茶道具を出張買取させて頂いております。また、「遺品整理をしていたら古い茶道具が出てきた」、「引越しをするため片付けをしていたら茶道具があった」などお手持ちの茶道具を整理したい際は、我楽洞にご連絡ください。
お手元にある大切な茶道具は、専門の鑑定士にお任せいただいた方が傷つけることなくより高い金額で査定ができます。数十年に渡る鑑定実績をもつ、我楽洞の茶道具専門の鑑定士がご自宅にうかがって、大切な茶道具を出張査定および買取をさせて頂きます。
主な買取対象の茶道具としては、茶碗・茶杓・御風炉・釜・茶掛けなど幅広くあります。その中には、三千家ゆかりのものや著名な茶人が愛用した茶道具、千家十職と称される職人たちによって作られた茶道具も含まれます。また、中国や朝鮮など外国で作られた茶道具も買取対象です。茶道具を売るなら、業界有数の買取実績があり、国内最高峰の美術商の組合「東京美術商協同組合」に加盟している「我楽洞」へお任せ下さい。
事前の茶道具簡易査定をご希望の場合は、メールもしくはLINEにて売却希望の茶道具作品の画像をお送り下さいませ。お品物のご説明と簡易査定額をご提示させて頂きます。
川越市で買取対象の主な茶道具
茶碗、茶杓、御風炉、茶掛、花入、棗、蓋置、水指、風炉先、御釜、茶入、香炉、香合、菓子器、銘々皿、炉縁、茶棚、急須、建水、茶托、鉄瓶、土瓶、帛紗、書付もの、その他茶道具
千家十職の茶道具
表千家、裏千家、武者小路千家、遠州派、江戸千家、上田宗箇流、織部流、石州流、藪内流、その他の流派の茶道具
主な流派の茶道具
千利休、利休七哲、蒲生氏郷、細川忠興、古田重然(織部)、牧村利貞(兵部)、高山右近(重友)、芝山宗綱(監物)、前田利長、瀬田正忠、鎌倉時代の茶人、室町時代の茶人、安土桃山時代の茶人、江戸時代の茶人、明治時代の茶人、大正時代の茶人、昭和時代の茶人、その他有名な茶人
茶人が愛用した茶道具
樂吉左衛門、大西清右衛門、中村宗哲、駒沢利斎、中川浄益、土田友湖、奥村吉兵衛、飛来一閑、黒田正玄、西村(永楽)善五郎
海外で作られた茶道具
中国茶道具、朝鮮茶道具、外国の茶道具
その他、希少価値が高い茶道具、その他有名作家や職人の茶道具を買い取りしております。
川越市での強化買取中の茶道具作家
今井宗久
今井宗久(いまい そうきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人・茶人であり、茶湯の天下三宗匠の一人として知られています。宗久は茶の師でもある武野紹鴎宅に身を寄せて茶の湯を学びます。独立後は、戦国大名に鉄砲や茶器を売り、財を成します。
1568年、織田信長が上洛すると、宗久は古田織部の名品である織部焼や「松島の茶壺」「紹鷗茄子」などを信長に献上し、その信頼を得ました。しかし、信長から羽柴秀吉の時代になると茶の湯は千利休が牽引するようになり、静かに主役の座を譲ります。
1593年に73歳で亡くなりましたが、宗久のゆかりの茶室「黄梅庵」は、現在でもその歴史的価値は高く、多くの観光客が訪れています。
益田鈍翁
益田鈍翁(ますだ どんのう)は、三井財閥の最高経営者として知られ、実業家として成功した後に茶人としても名を馳せました。彼は「千利休以来の大茶人」と称されるほどの評価を受けています。
鈍翁は小田原に別邸「掃雲台」を建て、数寄者との茶会を催し交流を深めました。彼の影響で小田原や箱根が近代茶人の拠点となりました。また、原三渓や松永耳庵と共に近代三大茶人としても知られています。彼の名前の由来は、1908年に手に入れた楽焼茶碗「鈍太郎」だと言われています。鈍翁は美術品の収集家でもあり、海外流出を防ぐために日本の美術品を収集していたとも言われています。彼は91歳で亡くなり、墓所は護国寺にあります。